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【第一次上田合戦】
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『真田に戦意なし』と徳川方に油断させ
徳川方がどのように進軍したのか?
記録がないので推定になりますが、神川の渡河後に、古代の国分寺跡に本陣を置いており、ここまでは真田からのさしたる抵抗もなかったことが分かります。
真田昌幸は第一防衛線にすべき神川を放棄して、上田城に閉じこもっていたのです。
神川は確かに防衛戦に適した場所です。
しかし問題は圧倒的な兵力差。
上流で回り込まれたら野戦では不利な地形にいますので、反撃できません。
ここで徳川方も『真田に戦意なし』と考えたでしょう。
上田城の築城を手伝った徳川家は、その縄張りまですべて把握しています。おそらく上記の地図が頭にあったのではないでしょうか。
そしてこう思ったことでしょう。
『これは楽勝だろう』
なんせこの先は、なだらかな坂を下って上田城に殺到するだけです。
事実、徳川方が侵攻を始めると、上田城の二の丸まであっさり制圧、あとは本丸を残すのみとなったとき、突如、真田昌幸が動きました。
一気に反撃に出たのです。
敵を十分に引きつけた上で城の脇から出撃した別働隊が徳川の側面を攻撃。
古図でも上田城の東側の門を戦闘正面とした場合、北と南の門から側面攻撃が可能な縄張りになっています。
東側面に対しても、何とか本丸全体が馬出状の防御施設になるように改築されたことが考えられます。
また、馬出は少数の兵力で大軍に対応できるますので、少数兵力の真田方にとっても本丸が最も守りやすい場所だったのでしょう。
そう考えると全ての防衛線を放棄して、本丸で迎え撃つプランは無謀でもないことが分かります。
もっとも普通の人間なら、ビビってしまい、絶対に二の足を踏む戦術です。
真田昌幸はよほど肝が据わっていたとしか思えません。
信幸の別働隊が逃げる徳川をコテンパに
すっかり油断していた徳川方は大混乱に陥り、ひとまず撤退します。
しかし、ここで突如、背後に現れた真田昌幸の長男・真田信幸(関ヶ原の戦い以後に「真田信之」になります)率いる別働隊が奇襲を仕掛けるのです。
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全く想定していなかった別働隊の奇襲。
徳川方は我先にと逃げ帰りました。
ところが、そう容易く逃げられません。
東に撤退するにはなだらかな坂を上らなければなりません。
追撃する昌幸の本隊と、真田信幸の別働隊は、逃げる徳川方に追いつき、さらに神川も退路を妨げ、多数の徳川兵が討ち取られます。
結局、徳川方は上田城を落とせず小諸城まで撤退するほかありませんでした。
実は、大勝利に貢献した真田信幸の別働隊は、砥石城に潜ませていました(地図を参照)。
※上田城(左)と砥石城(右)
砥石城から上田城までの間には川が流れており、神川と千曲川とで三角形の台地を形成しています。
真田信幸の一隊は台地の下を進み、身を隠した状態で上田城方面に進み、突如、徳川軍の目の前に現れて大混乱を引き起こしたのです。
それにしても、あまりに華麗な戦術――。
徳川軍の不甲斐なさだけが目立ってしまいますが、いったい何がこの奇襲を大成功に導いたのか。
主に3つの勝因が挙げられます。
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