庄内の乱、舞台の一つとなった志和池城・都城を囲む支城だった(絵・富永商太)

島津家

戦国島津家ドロドロの内紛「庄内の乱」関ヶ原直前の薩摩大乱とは?

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そして約一年後の慶長五年(1600年)3月に忠真は降伏し、戦は終わりました。

都城には北郷家が復帰し、伊集院家は頴娃(えい)、後に帖佐(ちょうさ)へ移封されています。
反乱の代償としてはいいほうでしょうね。

しかしこのタイミングが、島津家にとっては最悪でした。

同時期に、上方では既に会津征伐の話が持ち上がっています。
つまり、既に情勢は関が原の戦いへ着々と近づいていたのです。

志和池城の縄張りと

現在の志和池城跡

 

清正が絡んでなければ関が原も激変していた

また、忠真は加藤清正と連絡を取り、父の仇を取るための助力を依頼しようとしていました。

使者が「これはさすがにマズイでしょ」と考え、忠恒に報告したため表沙汰になっています。

未遂で済んだかと思いきや、清正のほうからも忠真に連絡していたことがわかりました。大名が他家の内紛に手を突っ込もうとしたことになりますから、当然家康は怒ります。

そして、清正には当分の上洛禁止が言い渡されます。

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清正が豊臣恩顧の筆頭であるにもかかわらず、会津征伐や関が原の戦いの本戦に参加していないのはこのためです。

もしも清正が忠真に肩入れしようとしなければ、関が原の戦いやその後の経過も全く変わっていたでしょうね。

 

関ヶ原から二年後に結局ブッコロ

ちなみに島津忠恒は、関が原の戦いから二年後、慶長七年(1602年)に忠真をブッコロしています。

狩りの最中でしたので、事故に見せかけたかったのでしょう。事実、対外的にはそのように扱われています。ひでえ。

まぁ、二年経っても忠真がアヤシイ動きをしていたのでしょうが……忠恒の日頃の行いからすると、ずっと恨んでいてもおかしくはありません。

この時点でも義久や義弘は存命ですので、その辺の許可があってのことかもしれませんけどね。

戦国時代というと戦で全てを決める印象があります。一方で、実は、こうした政争や陰謀もたくさんあって興味深いんですよね。

その部分は現代と何ら変わりないのかもしれません。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
庄内の乱/wikipedia

 



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