絵・富永商太

信長公記

箕浦の合戦で10倍の敵を撃退した秀吉~超わかる『信長公記』第75&76話

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今回は、元亀二年(1571年)5月6日に起きた【箕浦の合戦】に注目です。

浅井家との対決になりますが、『もう何度目?』といった印象をお持ちの方もおられるかもしれません。

浅井長政が、織田信長を裏切った1570年【金ヶ崎の退き口】から見て、主な戦いだけでも

・1567年 お市と結婚(諸説あり/同盟成立)

・1570年 金ヶ崎の退き口(織田家を裏切り)

・1570年 姉川の戦い

・1571年 志賀の陣

・1571年 比叡山焼き討ち

と近江を巡るバトルは頻繁に勃発。
浅井家の本拠地・小谷城と、それを監視するために横山城に入っていた木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)の細かな争いは幾度もあったと思われております。

今回の【箕浦の合戦】もまた、秀吉と長政をメインとしたお話。
信長公記』では珍しい、信長本人が直接出てこない戦の話でもあります。

 

互いの生命線「京都~岐阜ルート」の奪い合い

上記のような戦いによって、有利なポジションを得ていたのは織田家でした。

南近江と京都を往復するルートを確保し、機動力を保っていたのです。
一応、地図で確認しておきますと……。

【織田家の拠点・黄色】
・岐阜城(右)
・横山城(中↑)
・鎌刃城(中↓)
・京都(左)

【浅井家の拠点・赤色】
・小谷城

このラインは、織田家にしてみれば足利政権の生命線です。
と同時に、敵である浅井・朝倉両家からすれば、実に鬱陶しい事態です。

特に、小谷城すぐ南の横山城と鎌刃城は、喉元に刺さった魚のトゲのようなものでしょう。

城の安全を確保するには一刻も早く取り除きたいところです。

そこで浅井長政は、南近江に足がかりを得るべく、再び姉川方面に進出を図ります。

浅井長政/wikipediaより引用

浅井井規あざいいのりという親戚を出兵させ、箕浦エリア(米原市)の各所に火を放たせました。

そしてそのまま鎌刃城(米原市)付近まで迫ります。

鎌刃城は、堀秀村・樋口直房らの居城です。
彼らは浅井方から織田方に寝返り、重要拠点の長比たけくらべ城を織田方に譲り渡しておりましたから、浅井家にとっては疫病神以外の何者でもありません。
おそらくや報復や見せしめの意味もあって出兵したのでしょう。

 

敵の数は10倍……とはいえ大半は一揆勢で……

これに対し、横山城(長浜市)の城番を務めていた木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が即座に応戦へと動きました。

横山城に十分な兵と弟・木下小一郎(のちの豊臣秀長)らを残しておき、自分は100人ほどの小規模な部隊で山を回り込み、箕浦方面へ。
鎌刃城の堀秀村・樋口直房と合流します。

兵力としては5~600人程度だったろう、と信長公記では書かれています。

そして、下長沢(米原市)で浅井方についていた一向一揆勢、および足軽部隊と衝突しました。
浅井の兵力は、合わせて5000ほどに膨らんでいたようです。

最終的には藤吉郎たちが勝ったものの、敵の数が10倍近かったこともあり、被害は少なくありませんでした。

と、簡単に書かれておりますが、よくその兵数を相手に勝てたものだな?と疑問に思いますよね。

結局、5000の大半が一向一揆勢だったため、正規軍のような統率は取れず、グダグダになったのでしょう。一度、態勢が崩れながら持ち堪えたとありますが、やはりそれでも勝てるまではいかない。そこには戦いにおけるプロアマの厳然たる差があったようにも思えます。

それでも織田方も相応の被害が出ております。
樋口直房の家臣・多羅尾相模守という人物が討死し、その仇討をしようと突撃した彼の家臣・土川(ひじかわ)平左衛門もまた討死しました。

いずれにせよ、これで浅井方は再び後退し、織田方としては脅威が去った形となりました。
浅井・朝倉との戦いはまだまだ続きます。

 

岐阜のお雑煮はシンプルスタイル?

なお、今回から「巻四」となり元亀二年(1571年)の話になっております。

巻四の書き出しは
「この年の元日、岐阜城へ諸将が出仕した」
というもの。

具体的に何をしたのかまでは、信長公記に書かれていないのですが……。

雑煮は武家社会の儀礼的な正月料理だった」とする説があるため、もしかしたらこのときの織田家でも、出仕した人々にお雑煮などが振る舞われていたかもしれませんね。

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現代の愛知県や岐阜県では、すまし汁に餅菜や小松菜などの葉物類、焼かない角餅というシンプルなお雑煮が主流とのことで、信長たちも同様のものを食べていたのかもしれませんね。

個々の家庭や細かな地域差もありますし、何より時代が全く違うので、似ても似つかないものだった可能性も高いですが。

少々、時代が離れるものの江戸時代の書物では
「信長は薄い味付けを嫌い、濃い味付けを好んでいた」
という有名な話もあります。

若い頃から馬術や水練で自らを鍛え続けた信長ですし、他の武将や兵にしても、濃い味付けのほうが塩分補給になって合理的ですしね。

そして注目の話がもうひとつ。

 

浅井の名将・磯野員昌が陥落

2月24日のことです。

籠城を続けていた佐和山城の磯野員昌いそのかずまさがとうとう降参し、城を明け渡して高島(高島市)へ退去しました。

前年7月初頭からずっと籠城していたとすれば、約8ヶ月。
根性もさることながら、兵糧の備えや配分などもかなりきっちりやっていたのでしょうし、見事なものですね。

信長もこれを受け入れ、佐和山城に城代として丹羽長秀を置きました。

磯野員昌という武将の力量や性格も評価し、高島郡を与えて家臣の一員にしています。
彼は有り体にいえば「敗軍の将」なので、高待遇だったか? というと、そうでもないのですが……。

員昌は、この後もちょくちょく登場しますので、名前を覚えておくと少し楽しくなるかもしれません。

長月 七紀・記

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【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon link
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon link
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon link
『信長と消えた家臣たち』(→amazon link
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon link
『戦国武将合戦事典』(→amazon link

 



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