波乱万丈だった織田信長の生涯でも、とりわけピンチだったのが元亀元年(1570年)4月26日でしょう。
『信長公記』によると、この日【金ヶ崎の退き口】と呼ばれる撤退戦が勃発。
信長が信頼しきっていた同盟相手の浅井長政に裏切られ絶体絶命の窮地に陥り、京都まで命からがら逃げ出したのです。
越前国の金ヶ崎城を起点にした撤退戦だったことから【金ヶ崎の戦い】とか【金ヶ崎崩れ】などとも呼ばれたりしますね。
それは一体、どんな撤退戦だったのか?
今回は、初めての方にもわかるよう、事の経緯を少し丁寧に見ていきましょう。
例によってところどころ異説もありますが、スタンダードなほうで見ていきます。
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朝倉よ、京都にいるから挨拶に来いや
金ヶ崎の退き口は、織田信長の戦いの中でも一風変わった特徴を持っています。
一般的に信長というと、殺戮のイメージや桶狭間の戦いのように劇的な戦いを思い浮かべるかもしれませんが、この合戦は「退き口」という呼び名がついている通り「撤退するときの戦い」でした。
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当時、信長は同盟相手の徳川家康と共に、北陸の朝倉家を攻めておりました。
朝倉家の当主・朝倉義景に「今はワシが室町幕府の守護者だから、京にあいさつに来い」という命令を出していたものの、義景が無視し続けていたからです。
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にしても挨拶を無視しただけで戦争とは一体何事?
現代人ならそんな風に感じるかもしれませんが、既に室町幕府は実権を失っていたため、その守護者となれば将軍も同然。
少なくとも信長にとっては織田家の命令を無視するということは、あってはならない事態であり、絶好の攻める口実でもありました。
一方、義景が信長の命令を無視し続けたのは、朝倉家が織田家よりも由緒ある家柄だったため、
「信長だか何だか知らないけど、なぜポッと出の奴の言うことを聞かないといけないの? バカなの?」(超訳)
と考えていたからでした。
名家のプライドと、新興勢力がぶつかり合ったというわけです。
まさか浅井が裏切るなんて……
かくして朝倉家の北陸各所を攻め取ることにし、実際に攻略していった信長。
ここで予想していなかった事態が起きます。
妹・お市の方の嫁ぎ先であり、北近江を治めていた浅井家(浅井長政)が、突如、織田家を裏切って挟み撃ち攻撃を仕掛けているという報告が入ったのです。
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実は、信長はお市の方を長政に嫁がせる際、「婿殿のお付き合い先である朝倉家には攻めこまない」という約束をしていました。
つまり、先に約束を破ったのは信長です。
そのため、浅井家の当主・長政は「妻の実家をとるか、昔なじみをとるか」という板挟みになっていました。
長政個人としてどう思っていたかはわかりませんが、家臣たちや父親の久政は「先に約束を破ったのは信長のほうなんだから、こうなった以上戦うべき!!」という意見。
長政はこれを抑えきれず、背後から信長を攻めることにしたのです。
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