織田信忠/wikipediaより引用

信長公記

信長嫡男・奇妙丸(信忠)の初陣は5万の大軍で!超わかる『信長公記』第85話

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今回は、浅井朝倉との対陣。
信長の意外な面がいくつか見える……かもしれない話です。

話の始まりは、元亀三年(1572年)7月19日。
この日、信長は嫡男・奇妙丸(織田信忠)の具足初めを執り行いました。

「具足初め」とは文字通り、武家の男子が初めて具足=鎧を着用する儀式のことです。
元服式とは別に行われ、タイミングはケースバイケースといったところ。信忠の場合は、この年の正月に元服式を行っていたので、少し間が空いています。

その後、父子揃って敵・浅井のいる北近江へ出陣し、この日は赤坂に陣を置きました。

嫡男の初陣でもあり、信長自身の思惑もあり、このときの織田軍は実に5万ほどの大軍だったとか。

もちろん、佐久間信盛柴田勝家の両家老の他、稲葉一鉄ら西美濃三人衆、丹羽長秀蜂屋頼隆といった長く仕えている家臣たち、木下藤吉郎(豊臣秀吉)のように低い身分からバリバリ頭角を現してきた者まで、錚々たる顔ぶれでした。

 

浅井の本拠地・小谷城へ向かい

翌日、織田軍は横山まで進みました。
が、実際に動くのは7月21日からです。

織田軍は同日、浅井氏の本拠・小谷城へ向かって進み、すぐ手前の雲雀山と虎御前山に兵を登らせました。
それから主だった将に命じ、さまざまな面から攻勢をかけていきます。

例えば、佐久間信盛らは町を破壊し、水場まで敵を追い詰め、数十人を討ち取りました。

木下藤吉郎の隊は、近隣の山本山に立てこもった浅井家臣・阿閉貞征あつじさだゆきを攻め、山の麓を焼いています。敵の足軽100人ほどが打って出てきたため応戦し、50人ほどを討ち取って、藤吉郎らは信長に称賛されたとか。

しかし、敵の本拠を攻めるからには、敵の数や攻めるべきところの守備力なども認識しておかなくてはありません。

特にこの場合、一向一揆勢も絡んでいますから、どこに敵がいるかわかりません。
織田軍は北近江のあちこちを攻めました。

 

琵琶湖に浮かぶ竹生島も攻撃

7月23日、越前に近い与語・木本周辺を、名所・寺院・旧跡などの区別なく焼き払っています。
このあたりが焼かれるのは、信長公記に書かれているだけでも三回目ですね……。

続いて7月24日、草野(長浜市)の大吉寺に一向一揆勢が立てこもっていたので、麓を攻撃しました。
夜に木下藤吉郎・丹羽長秀の二人が攻め上り、僧俗問わず多数を切り捨てたといいます。

また、同時期に明智光秀らに命じて船を造らせ、海津浦・塩津浦・琵琶湖湖岸から北近江のあちこちを焼かせています。
琵琶湖に浮かぶ竹生島も攻撃したようです。

少々残酷にも見えますが、一向一揆勢は多少の説得や脅しでは降伏しません。
織田軍の激しい攻撃によって、ようやく北近江の一揆勢は鳴りを潜めます。これでなんとか、敵勢力の一方を封じることができました。

……が、さすがに何もかもうまくいったわけではありません。

そのころ浅井長政が朝倉義景の出馬を願う手紙を出し、朝倉軍が小谷城へ向かっていたのです。
しかし、小谷城が既に織田軍に囲まれていたため、大嶽という山に布陣しました。

 

静かに鳴りを潜める動かない浅井朝倉陣営

朝倉軍の登場を知った信長は、急ぎ、足軽たちに命じて撹乱させます。

夜陰に紛れて物資を奪ったり、敵兵の首をとってきたり。
それぞれに働くと信長も成果に喜び、褒美を出したので、足軽たちはますますやる気を出したとか。労働と対価が釣り合っていれば、使う方も使われる方も気分がいいですよね。

とはいえ、まだまだこの滞陣は終わりません。

7月27日、信長は虎御前山に築城を命じます。

この山は、小谷城からわずか2kmしか離れていません。
上から見下ろせるような城を作るということは、長期戦の準備と、小谷城内や朝倉軍への心理的な攻撃、二つの意味が出てきます。

しかし、浅井軍や朝倉軍は、織田軍の築城を妨害するどころか、打って出てくる気配すらありませんでした。

そのまま大きな衝突もなく日が過ぎていき、『信長公記』に次の動きが記載されるのは、8月8日のことです。
朝倉軍の将・前波吉継が、息子二人とともに織田軍へ寝返ったのです。

さらに翌9日には、同じく朝倉家臣の富田長繁・戸田与次・毛屋猪介も降りました。

これ程まとまった数の重臣に愛想を尽かされるという時点で、朝倉軍は撤退を選んでもいいくらいでは……。

 

信長が決戦を申し込むも……だらしない朝倉軍

それでもなお、朝倉軍は動きません。

信長は一度横山(長浜市)まで撤収しようと考え、その前に朝倉方へ堀秀政を派遣し、
「そっちもここまで来たんだから、日限を決めて一戦しよう」
と伝えました。

が……これまた以前(志賀の陣)、決戦を申し出たときのように返事はありません。

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9月16日まで待っても朝倉軍からの返答がないので、信長父子は横山に引き上げました。このときも追撃すらされていません。
虎御前山には木下藤吉郎を残し、いざというときの備えとしています。

その「備え」が役に立ったのは、なんと冬に入った11月3日。新暦では12月7日です。

このときは浅井・朝倉軍が出てきて、虎御前山~宮部に織田軍が築いた築地を破壊しようとしました。
そこで藤吉郎らが応戦し、撃退したのです。

 

「俺がこの戦で一番の手柄を立ててやる!」

この撃退戦の中で、滝川彦右衛門という者が特に目覚ましい働きをしたので、信長の前に召し出され、面目を施した……と信長公記には特記されています。
実は彼、以前小谷を攻めたときに大きな旗指物を使いながら、特別な手柄を挙げることができませんでした。

戦場で目立つということは、それだけ自分の力に自信があるということ。

「俺がこの戦で一番の手柄を立ててやるから、皆覚えておけよな!」
という意思表示のようなものです。

変わり兜や目立つ色の旗指物・鎧などは、そうした目的でどんどん大ぶりになっていきました。

織田家関連で有名なものだと、前田利家烏帽子兜が挙げられます。文字通り、烏帽子のような細長い形の兜です。

もっとも、利家の場合は大きな烏帽子兜を行軍中に、小さめのものを実戦で、というように使い分けていたようですが。
そもそも、利家自身が6尺(約182cm)という、当時の平均とかけ離れた身長ですしね。

虫や動物などのモチーフがついている兜には、その動物の習性にあやかろうという願掛けがこもっている場合もあります。

こちらも織田家関連で例を挙げますと、蒲生氏郷がナマズの飾りをつけた兜を愛用していました。これは「大ナマズは地震を起こす」という古い言い伝えから、「地震を起こす程の力を持つナマズにあやかりたい」との願いがこもっているのだそうで。

あるいは伊達成実の毛虫(前にしか進まず一歩も退かない)なんかもよく知られてますかね。

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信長の柔軟な攻撃スタンスが見えてくる

閑話休題。
そういうわけで、目立つ旗指物を使いながらも、手柄を挙げられなかった彦右衛門は、当然信長から大目玉を食らいました。

しかし、この度はきちんと手柄を挙げたので、恥を雪ぐことができた……というわけです。

この節からは、信長のこんな点がうかがえます。

・力攻めだけをしていたわけではない
・使者を出した際は、できるだけ長く相手の返答を待つ
・敵の降伏には比較的寛容である
・失敗をしても、後から取り返すような手柄を挙げれば、厳罰を処すことはない

意外と気が長いというか、少なくとも瞬間湯沸かし器のようなタイプではなかった……といえるでしょうね。

長月 七紀・記

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【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon link
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon link
織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon link
『信長と消えた家臣たち』(→amazon link
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon link
『戦国武将合戦事典』(→amazon link

 



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