徳川家康と言えば我慢の人――。
幼い頃は人質生活を強いられ、天下人レースにおいても織田信長や豊臣秀吉の後を追いかけながら、苦心の末、ようやく、やっと、江戸幕府を開いたイメージがあります。
その凄まじき忍耐力、やはり人質生活で養われたのか?
なんてことを想像してしまいますが、実は、家康一人で培われたものではないとも思えるのです。
松平広忠(1526-1549)。
家康の父であるこの広忠こそ、織田と今川に挟まれ、一向にまとまらない一族・家臣団のやりくりに奔走。
1549年4月3日(天文18年3月6日)に24の若さで亡くなってはしまいますが、後の天下人へ苦心の末にバトンを繋ぎます。
では彼そのものは一体どんな人物だったのか?
本稿では、悲運の戦国大名・松平広忠の生涯を見て参りましょう。
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松平広忠の父・清康の功績で戦国大名へ
松平広忠は大永6年(1526年)、松平清康の嫡男として生まれました。
当時の松平家はどんな状況だったのか?
それをご理解いただくためには、まず広忠の父・清康の動向をご説明した方が良いと思われます。しばしお付き合いください。
清康の生まれた安城松平家は、三河国の有力一族として知られ、岩津城の松平惣領家をしのぐ勢いでした。
同じ三河国で岡崎城を有していた「岡崎松平家」も力を有しており、安城家と岡崎家は同族で対立。
さらに安城家内では、内部分裂も起きており、清康の家は叔父である桜井松平信定と権力を分かち合うような状態です。
混乱しそうなので、いったんマトメておきますと……。
◆三河・松平家の権力争い
岡崎松平家
vs
安城松平家(清康)
※安城では松平清康vs桜井松平信定で内部分裂
こうした戦乱期ド真ん中の三河で――清康は、大永3年(1523年)に13才の若さで元服すると、翌大永4年(1524年)に岡崎松平氏を攻め、岡崎城を陥落させると西三河を平定。
続いて東三河にも進出し、土豪たちを次々と服属させていきました。
そのままジリジリと勢力を拡大し続け、天文3年(1534年)に東三河を制圧すると、今度は再び西へ矛先を向け、隣国・尾張へ攻め込みます。
清康の快進撃は江戸時代の書物に由来するものが多く、一次史料での裏付けがないという難点もありますが、ここはひとまず彼の事績だとして進めましょう。
【守山崩れ】清康の死
清康は勢力拡大に成功する一方、自身の足元である「安城松平氏の分裂」については中々解消できずにおりました。
そしてそれが清康にとって致命傷となります。
天文4年(1535年)のことです。
清康が尾張の守山に着陣。
織田信秀攻略のためと伝わりますが、敵は信秀ではなく桜井松平信定であったとも、そもそも攻撃ではなく外交目的であったという説も囁かれます。
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いずれにせよ進軍自体は滞りなく行っていた清康。
ただ、困ったことに身内の反対勢力である桜井松平信定は一向に従う気配はありません。それどころか信定は織田氏に内通していた疑いもあり、安城松平家の緊迫した様子は誰の目にも明らかでした。
そんな状態のまま清康軍は尾張の守山へ進みます。
家臣の間にも動揺があったのでしょう。にわかに緊張が走る中、トンデモない事件が起きてしまいます。
味方の馬が暴れるという騒動を耳にした阿部弥七郎という家臣が「かねてより内通を疑われていた父が殺されるのだ!」と思いこみ、清康を切り殺してしまったのです。
後世【守山崩れ】と称されるこの事件により、清康軍は撤退。
父が亡くなり、思わぬタイミングで家督を継承することになったのが松平広忠(徳川家康の父)でした。
流浪の末、ようやく岡崎城へ帰還
父・清康の代では破竹の快進撃を続けていた安城松平家。
しかし、大黒柱の死をキッカケに一族内の分裂が表面化し、後継の松平広忠はその煽りをダイレクトに食らってしまいます。
広忠は大永6年(1526年)生まれですから、このとき数えで10才です。家臣に支えられるにせよ、かなりの無理難題ですよね。
実際、守山崩れの後、信秀軍ないしは信定軍によって、まだ幼い広忠の籠もる岡崎城が攻められたと伝わります。
この時は家臣らの奮戦によって難を逃れたようですが、「邪魔くさかった清康が死に、残されたのは幼い弘忠のみ。チャンスは今しかない!」とばかりに意気込む桜井松平信定は、引き続き岡崎城の乗っ取りを試みました。
清康を失って動揺していた広忠一派は、結局、信定の岡崎入城を許し、城を追われます。
「このままでは広忠が攻め滅ぼされるかもしれない」
そう考えて広忠救済の一計を案じたのは、他ならぬ清康を殺害した阿部弥七郎、その父・阿部定吉でした。
定吉は、我が子の行いに罪悪感を抱いていたのでしょう。
守山崩れの一件で“許し“を受けていた定吉は天文4年(1535年)、弟の阿部定次らとともに広忠を連れ出し、遠く伊勢の地へと逃れるのです。そして……。
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