片桐且元

片桐且元/wikipediaより引用

豊臣家

賤ヶ岳七本槍・片桐且元の苦悩がキツい~大坂の陣で徳川豊臣の板挟み

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
片桐且元
をクリックお願いします。

 

方広寺鐘銘事件のとき家康はすでに71歳

方広寺鐘銘事件とは……。

「お寺の鐘に国”家”安”康”って刻んだそうですね? ワシの名前をぶった切るなんて呪詛ですか?」(超訳)

上記のように家康が豊臣家に迫ったとき、年齢は既に71歳でした。

現代であれば「もっと長生きしてね」という歳ですが、当時としては何時あちらの世界へ旅立ってもおかしくない年齢です。

方広寺鐘銘 「国家安康」「君臣豊楽」/photo by Fg2 wikipediaより引用

家康は自分が死んだ後、秀忠が豊臣家をうまく処分できるとは考えていなかったのでしょう。

そこに(苦しいながらも)豊臣家を咎め立てできるモノが見つかったので、つついてみた……というのが、方広寺鐘銘事件の実情ではないでしょうか。

当時の「呪詛」というのはシャレでは済まされませんので、言いがかりとしても一応筋は通っていますし。

そして、このとき駿府へ弁明にやってきたのが片桐且元だったのです。

前述の通り、賤ヶ岳の七本槍に数えられる秀吉恩顧の武将でした。

【賤ヶ岳の七本槍(当時の年齢)】

加藤清正(22才)
福島正則(23才)
加藤嘉明(21才)
脇坂安治(30才)
片桐且元(28才)
平野長泰(25才)
糟屋武則(不明)

賤ヶ岳の七本槍って実は九本槍!? 戦場ではどんな活躍を? まんが戦国ブギウギ81話

続きを見る

片桐且元は、父が北近江の国衆・片桐直貞で、秀吉の長浜城時代に弟の片桐貞隆と共に傘下へ入りました。

同僚が石田三成や大谷吉継、脇坂安治など。

このときは生粋の豊臣メンズなわけですね。

彼等は主に「計数の才」を得意とし、兵糧や武器弾薬の手配や太閤検地など、槍働きよりも数字で政権を支える若手官僚のような存在でした。

しかし且元は、家康にとっても微妙な立場ながら重要な人材でありました。

彼は豊臣秀頼を支えるポジションであり、同時に家康とも通じてその意を豊臣に伝える役割もこなせたため、関ヶ原の戦い後に所領も与えられています。

他ならぬ方広寺大仏殿の普請奉行を務めたこともあり、適任と言えば適任でもありました。

※ついでに言うと片桐且元は出雲大社の造営奉行を務めたりもしています

 

片桐の意見として淀殿に譲歩案を提示するも

兎にも角にも、駿府へやってきた片桐且元。

家康は直接会わず、代わりに側近の僧侶が「呪いじゃないならそれなりの誠意を見せてよ^^」(※イメージです)という空気だけを匂わせました。

個人間だったら確実に嫌がられる対応ですが、政治的なやりとりでは定石というか、腹を探らせるやり方ですね。

家康の言わんとすることを察した且元は、あくまで私見として、秀頼と淀殿に対応策を提案しました。

具体的には以下の三案となります。

「秀頼が大坂城から出る」

「秀頼が江戸へ参勤する」

「淀殿を人質に出す」

戦国時代であれば珍しくない話です。

しかし且元は、淀殿という人間を理解しきれていませんでした。

淀殿/wikipediaより引用

秀吉存命中に「天下人の跡継ぎの母」として絶対的な地位になった淀殿には、今さら自分と息子が誰かの下になることなど考えられなかったのです。

淀殿は、織田信長の妹・お市の方の娘(浅井三姉妹の長女)であり、秀吉お気に入りの側室でしたから。

 

大坂城を退いた且元 かくなる上は武力行使やむなし

また、淀殿と同じように、

「豊臣家は家康の家臣ではない!」

と考える人々も、且元の提案を断固拒否しました。

だからこそ

【豊臣家を救いたい!】

という譲歩案を提出した且元に対し、豊臣家内は冷ややかな対応をするようになり、弟の貞隆も大坂城内で孤立。

結局、片桐且元と貞隆の二人は、貞隆の居城である茨木城(現・大阪府茨木市)へ退かざるを得なくなります。

家康としては、且元が自分の意向に気づき、何らかの手を講じると考えていたでしょう。

豊臣家に引いて貰えれば、それで政権は安定し、完全に滅してしまう必要もないワケです。

しかし、その且元が大坂城から出てしまっては、もはや

・豊臣家に

・家康の真意を理解する人間がおらず

・話し合いは成立しない

ことを意味します。

後任のようなカタチで大野治長兄弟などがおりましたが、家康自身の寿命を考えれば、もうこれ以上の猶予はありませんでした。

 

大坂の陣直後に且元死す

もはや大坂へ攻め込むしかない――。

関ヶ原の戦い(1600年)から、この交渉までにかけた時間と比べ、方広寺鐘銘事件(1614年)から大坂冬の陣(1614年)までの時間は極めて短いものでした。

なんせ発覚したのが同年夏で、その2ヶ月後の10月には、家康自身が軍を率いて駿府を出ているのです。

おそらくは片桐且元を大坂へ帰した時点で、家康は「この冬までに良い反応がなければ、武力行使もやむなし」と決めていたのでしょう。

豊臣家は豊臣家で、方広寺鐘銘事件の前から浪人や兵糧を集めていました。

上方でも「いつ戦になるかわからない」といった噂が流れていたようです。

石田三成はとっくのとうに処刑されていましたが、この辺の豊臣側の動きは三成とよく似ているというか、

「こう動いたら、世間や家康・幕府はどう思うか」

「それが自分たちにとってどんな影響を与えるか」

という視点が欠如している気もします。

家風といえばそれまでですけれども、もうちょっと良い形で危機を乗り越える方法もあっただろうな……と思えるだけに、残念なことです。

もしもこのとき、豊臣家が柔軟な姿勢を見せていたら?

豊臣家に味方した大名や武将も、現在よりは多く生き残れていたかもしれません。

大坂夏の陣図屏風/wikipediaより引用

なお、片桐且元は大坂夏の陣で家康方につき、自身の藩(竜田藩・初代藩主)を残しはしましたが、当人は豊臣家滅亡からわずか20日ほど後に亡くなっています。

死因については病死とも自害とも……。

なんとも切ない終わりになってしまいました。

あわせて読みたい関連記事

大坂夏の陣
大坂夏の陣~全貌がわかる各武将の戦闘まとめ~幸村や又兵衛の散り際

続きを見る

徳川家康
史実の徳川家康は三度の絶体絶命をどう乗り越えた?天下人の生涯75年

続きを見る

千姫
家康の孫娘で秀吉が義父「千姫」は大坂城を脱出した後どうなった?

続きを見る

豊臣秀頼の父親
豊臣秀頼が秀吉の実子でなければ誰の子なの?僧侶かそれとも陰陽師か

続きを見る

賤ヶ岳の七本槍って実は九本槍!? 戦場ではどんな活躍を? まんが戦国ブギウギ81話

続きを見る

織田信長
史実の織田信長ってどんな人?生誕から本能寺まで49年の生涯まとめ

続きを見る

お市の方
戦国一の美女・お市の方はどんな生涯を辿った?どうする家康北川景子

続きを見る

豊臣秀吉
ド派手すぎる豊臣秀吉の逸話はドコまで本当か?62年の生涯まとめ

続きを見る

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon
歴史群像編集部『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon
滝沢弘康『秀吉家臣団の内幕 天下人をめぐる群像劇 (SB新書)』(→amazon
大坂の陣/Wikipedia
片桐且元/Wikipedia

TOPページへ

 



-豊臣家
-

×