片桐且元

片桐且元/wikipediaより引用

豊臣家 豊臣兄弟

豊臣恩顧の片桐且元が家康と淀殿の間で板挟み~そして「大坂の陣」は勃発した

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豊臣も公家ならば十分に生き残れた

「家康は何が何でも豊臣家を叩き潰すつもりだった」というイメージが強いですが、そうとも限りません。

秀吉は武家の職である征夷大将軍ではなく、公家の職である関白になっていました。

ゆえに「公家として豊臣家を残す」という手段はあったのです。

色々と面倒はあるものの、豊臣家側にその気があれば、家康も乗ったでしょう。

それができなくなったのは、豊臣家に駆け引きができる人材がいなかったからではないでしょうか。

家康が、秀吉存命中からの約束である孫の千姫輿入れを予定通り行ったのは、

「そっちがきちんと対応してくれるなら、豊臣家をないがしろにするつもりはない」

というアピールだったはず。

豊臣秀頼(右)と千姫/wikipediaより引用

征夷大将軍になって、わずか二年で秀忠に継がせたことも、世襲制をアピール。

「もう秀頼は武家のトップにはなれないんだから、ちょっと退いてくれ」

それを暗に示すつもりだったと思われます。

ここで豊臣家から何かしらのアクションがあって和解できていたら、豊臣家は公家としてずっと続いたかもしれませんね。

そしてそうなっていれば、あの方広寺鐘銘事件はなかったかもしれません。

 


方広寺鐘銘事件のとき家康はすでに71歳

方広寺鐘銘事件とは……。

「お寺の鐘に国”家”安”康”って刻んだそうですね? ワシの名前をぶった切るなんて呪詛ですか?」(超訳)

上記のように家康が豊臣家に迫ったとき、年齢は既に71歳でした。

現代であれば「もっと長生きしてね」という歳ですが、当時としてはいつ亡くなってもおかしくない年齢です。

方広寺鐘銘 「国家安康」「君臣豊楽」/photo by Fg2 wikipediaより引用

家康は自分が死んだ後、秀忠が豊臣家をうまく処分できるとは考えていなかったのでしょう。

そんなタイミングで豊臣家から挑発的なことをされたので、さすがに黙っていられなくなったのが方広寺鐘銘事件の実情ではないでしょうか。

当時の「呪詛」というのはシャレでは済まされません。

そして、このとき駿府へ弁明にやってきたのが片桐且元だったのです。

前述の通り、賤ヶ岳の七本槍に数えられる秀吉恩顧の武将でした。

【賤ヶ岳の七本槍(当時の年齢)】

加藤清正(22才)
福島正則(23才)
加藤嘉明(21才)
脇坂安治(30才)
片桐且元(28才)
平野長泰(25才)
糟屋武則(不明)

片桐且元は、父が北近江の国衆・片桐直貞で、秀吉の長浜城時代に弟の片桐貞隆と共に傘下へ入りました。

同僚が石田三成大谷吉継脇坂安治など。

このときは生粋の豊臣メンズなわけですね。

石田三成/wikipediaより引用

彼等は主に「計数の才」を得意とし、兵糧や武器弾薬の手配や太閤検地など、槍働きよりも数字で政権を支える若手官僚のような存在でした。

しかし且元は、家康にとっても微妙な立場ながら重要な人材でありました。

彼は豊臣秀頼を支えるポジションであり、同時に家康とも通じてその意を豊臣に伝える役割もこなせたため、関ヶ原の戦い後に所領も与えられています。

他ならぬ方広寺大仏殿の普請奉行を務めたこともあり、適任と言えば適任でもありました。

※ついでに言うと片桐且元は出雲大社の造営奉行を務めたりもしています

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