豊臣秀長の肖像画|大和大納言として豊臣政権を支えた秀吉の弟を描いた作品。黒地に文様の直衣をまとい、扇を持つ穏やかな表情の武将像。

豊臣家

史実の豊臣秀長はいつ織田家に仕えたのか?最初は秀吉ではなく信長の家臣だった

大河ドラマ『豊臣兄弟』で桶狭間の戦いに参戦することになった弟の豊臣秀長。

今後は秀吉の側に付き従い「NO.2」として出世していく様子が描かれそうだが、史実では、武士として、いつから誰に仕えていたのか?

というと、出仕時期については、正確な時期が判明していない。

「秀長は◯◯から武士になりました」という記録はないのだ。

それどころか当初の秀長は、秀吉の家臣ではなく、織田信長の直臣(馬廻衆)だったとも指摘される。

一体どういうことなのか?

豊臣秀長の肖像画

豊臣秀長/wikipediaより引用

豊臣秀長の名前が“初めて”史料に登場する『西村文書』、そしてその後の記録となる『信長公記』や秀吉の動向から振り返ってみよう。

まずは『西村文書』から。

戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド

 

「秀長」ではなく「長秀」

『西村文書』とは天正元年(1573年)8月16日付けで出された書状であり、近江国伊香郡黒田郷の住民に対して、秀長が次のように“安全保障”を呼びかけたものだ。

「織田軍の足軽等による略奪行為が無いようにこちらで取り締まる(だから安心して村へ帰ってくれ)

「取り締まる」とは一体何事か?

実はその頃、黒田郷の付近では、合戦が起きていた。

織田信長と浅井長政の間で起きた「小谷城の戦い」である。

織田信長(左)と浅井長政の肖像画

織田信長(左)と浅井長政/wikipediaより引用

織田軍が浅井の本拠地へ攻め込み、結果、秀吉らの活躍で浅井家を滅ぼすに至ったが、このとき近隣の黒田郷の住民たちは戦乱から逃れるため村を離れていた。

なぜ村人たちは逃げていたのか?

というと、当時は合戦が起きると足軽等によって付近の村が荒らされるためであり、食糧や物資だけでなく、人々までもが奴隷として強奪される被害に遭っていた。

そうならぬよう村人たちは山あいの避難所や領主の城に逃げ込むのが常だったが、今回、織田と浅井の合戦が終わったため、秀長が「黒田郷の住民は安心して村に戻ってくれ」と呼びかけたのである。

それが『西村文書』であり、同書の中に記された名が「木下小一郎」と「長秀」で、記念すべき秀長の史料初登場となる。

名は「長秀」であり「秀長」ではない。

苗字も「木下」であり「羽柴」ではない。

実は兄の秀吉は同年7月20日までに「木下」から「羽柴」へと苗字を変えていたが、一方の秀長は「木下」のまま。

一体なぜなのか?

その理由の前に、その翌年に記された『信長公記』の記録を確認しておきたい。

 


三度目の長島一向一揆に兄は不参戦

織田信長の側近である太田牛一が主君の軌跡を記した『信長公記』。

その中に秀長が初めて登場するのは、天正二年(1574年)7月、長島一向一揆での戦いである。

実は織田軍は、伊勢長島の一向一揆勢と三度の戦いに及び、それまで小さくない被害を受けてきたが、この天正二年の戦いが最後であり、最終的に信長が2万人の衆徒を虐殺したことでも知られる。

※その詳細は別記事「長島一向一揆」をご覧ください

このとき秀長の立場は、秀吉の家臣ではなく「信長の馬廻衆」だった。

つまり織田信長に直属する直臣である。

秀長は、常に秀吉をサポートしていたイメージが強いが、実のところ兄弟はいつも一緒に行動していたわけではなく、そもそも三度目の長島一向一揆に兄の秀吉は参加していない。

豊臣秀吉の肖像画

豊臣秀吉/wikipediaより引用

苗字についても、秀長は「木下」のままで、兄は前述の通り「羽柴」に変えて1年ぐらいの期間が経過していた。

では、秀長はいつから「羽柴」となったのか?

 

いつから羽柴の苗字を名乗った?

長篠の戦いで武田勝頼に勝利し、越前一向一揆も平定。

度重なる周囲の重圧を跳ね返し、織田信長の威光が増していった天正三年(1575年)――この年の11月11日付けに秀長が出した書状に注目してみよう。

秀吉の治める長浜領の古橋村に向けて出された、年貢に関する書状であり、その中で秀長は「羽柴」の苗字を記している。

名前はまだ「秀長」ではなく「長秀」だが、同年11月までに「羽柴」つまり秀吉の一門衆として兄を支えることになったことが、この書状からわかる。

なぜ、このタイミングなのか?

というと、同じ頃、織田信長が従三位権権大納言兼右近衛大将の官位を授かるなど、朝廷に天下人として認められ、必然的に重臣である秀吉の立場も強化する必要があったため、と考えられている。

織田信長の肖像画

織田信長/wikipediaより引用

以降、秀長は秀吉を間近で支え続けることとなり、その後、「長秀」の名は天正十二年(1584年)9月頃まで用いている。

その2年前に織田信長が亡くなり、主君となった秀吉の「秀」を「長」よりも重んじたためであろう。

逆に「長秀」の「長」が信長からの偏諱であった可能性も高く、やはりそれまで信長の直臣であった可能性を高める。

 

出仕時期は永禄五年以降か?

では最後になったが、秀長がいつから織田家に仕えたのか? その出仕時期を考察してみよう。

大河ドラマ『豊臣兄弟』の時代考証・柴裕之氏は、著書『羽柴秀長 秀吉の天下を支えた弟』の中で「永禄八年(1565年)以前、永禄五年(1562年)以降」と推察している。

永禄八年(1565年)は織田信長が尾張を完全に統一した時期であり、秀吉も寧々と結婚した一年。

※詳細は別記事「織田信長の尾張統一」へ

以降、秀吉は斎藤家や浅井家との戦いでも働きを認められ、飛躍的な出世を始めるが、それ以前の契機となるのが永禄五年(1562年)であり、この年、秀吉は所領を得て「木下藤吉郎」を名乗り始めたとされる。

そのタイミングで秀長も呼ばれたのでは?というわけだ。

月岡芳年『月百姿 稲葉山の月』

若き頃の秀吉を描いた月岡芳年『月百姿 稲葉山の月』/wikipediaより引用

ただし、前述の通り、秀長は信長の直臣であって、秀吉の家臣として仕えたのではない。

大河ドラマ『豊臣兄弟』ではおそらく、常に兄弟共にいるように描かれるであろうが、史実では必ずしもそうでないことを知っておくと、また別の楽しみとなろう。

秀長が永禄三年(1560年)桶狭間の戦いに参加した可能性は誰にも否定はできない(参加したという証明もできてはいない)。

『豊臣兄弟』総合ガイド|登場人物・史実・出来事を網羅


参考書籍

柴裕之『羽柴秀長 秀吉の天下を支えた弟』(2025年9月 KADOKAWA)
河内将芳 (著)『図説 豊臣秀長 秀吉政権を支えた天下の柱石』(2025年5月 戎光祥出版)
黒田基樹『百姓から見た戦国大名』(2006年9月 筑摩書房)

【TOP画像】豊臣秀長/wikipediaより引用

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BUSHOO!JAPAN(五十嵐利休)

武将ジャパン編集長・管理人。 1998年に大学卒業後、都内出版社に入社し、書籍・雑誌編集者として20年以上活動。歴史関連書籍からビジネス書まで幅広いジャンルの編集経験を持つ。 2013年、新聞記者の友人とともに歴史系ウェブメディア「武将ジャパン」を立ち上げ、以来、累計4,000本以上の全記事の編集・監修を担当。月間最高960万PVを記録するなど、日本史メディアとして長期的な実績を築いてきた。 ◆2019年10月15日放送のTBS『クイズ!オンリー1 戦国武将』に出演(※優勝はれきしクン) ◆国立国会図書館データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/001159873

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