御次秀勝の実父・織田信長(右)と養父・豊臣秀吉/wikipediaより引用

豊臣家

信長の実子で秀吉の養子となった御次秀勝(羽柴秀勝)の生涯|謎多き早逝

2024/12/09

天正13年12月10日(1586年1月29日)は秀吉の養子である御次秀勝の命日です。

戦国作品でもあまり見かけないこの秀勝、実はあの織田信長の実子。

場合によっては秀吉の跡継ぎになっていても不思議ではなかった人物です。

それがなぜ、今ではほとんど注目されない存在なのか?

結論から申しますと、わずか18歳で亡くなっているからだと思われますが、秀吉が豊臣政権を固めゆく最中に早逝しているのですから、いかにも怪しげな話ですよね。

要は「暗殺でもされたのか?」と勘繰ってしまいたくなるわけで……その辺も含めてこの御次秀勝の生涯を振り返ってみましょう。

なお、秀吉には三人の「秀勝」という子(養子)がいます。

これまた御次秀勝という存在をややこしくしている要因かもしれず、この点もスッキリさせながら進めたいと思います。

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秀吉のもとに三人もいた秀勝

御次秀勝は永禄十一年(1568年)、父・織田信長の第四男(第五男とも)として生まれました。

織田信長/wikipediaより引用

母は、養観院と呼ばれる信長の側室の一人。

彼女の生没年は不明ですが、秀勝が永禄十一年(1568年)生まれですので、若くて1550年代半ば生まれでしょう。

また、蒲生氏郷の正室となった相応院(俗称・冬姫)も、養観院を母とする説があります。

その場合、秀勝とは同母きょうだいということになり、氏郷と義兄弟という繋がりにもなりますね。

◆御次秀勝の近親者

【父】織田信長

【母】養観院(側室)

【姉】相応院(冬姫)蒲生氏郷の正室※1

【本人】御次秀勝

秀勝は天正5~6年(1577~1578年)頃に秀吉の養子になったと考えられます。

冒頭で述べた通り、秀吉には三人の「秀勝」という子がいて、これ以前に「石松丸秀勝」という、養子か実子か不明の男子がいたとされます。

そのため本記事の御次秀勝は、幼名の”於次丸(おつぎまる)”から一字を取って「次秀勝」と呼ぶのが通例になりました。本人もそのように署名していた頃もあります。

問題は「秀勝」がこの二人で終わらないことでしょう。

秀吉はその名を強く好んだようで、この御次秀勝の死後に、秀吉の姉(父は三好吉房)が産んだ小吉を養子にして、同じ「秀勝」の名を与えました。

まとめると以下のようになります。

①秀勝→夭折した石松丸秀勝(実子か養子か不明)

②秀勝→信長の実子だった御次秀勝(本記事の主役)

③秀勝→秀吉姉と三好吉房の子・豊臣秀勝(豊臣秀次の弟)

子になった順番も整理しておきますと以下の通りです。

石松丸秀勝は推定1570年代生まれで1576年に死去。

その後、信長の実子である御次秀勝が秀吉の養子にやってきて、1586年に亡くなると、その後に三番目の秀勝が養子になったと考えられています。

というわけで非常にややこしいですが、本記事では「御次秀勝」の名前で進めて参りましょう。

 


義父・秀吉の部将として

御次秀勝は天正八年(1580年)頃から秀吉の配下として文書に登場します。

まだまだ若いので、後継者候補ではあっても武将の一人に近い形でした。

そして中国地方の毛利攻めに参加中、天正十年(1582年)6月、実父の織田信長が本能寺の変で横死。

次秀勝も秀吉軍の一員として山崎の戦いに参戦します。

その後、同年10月に秀吉が営んだ大徳寺での信長の葬儀では、次秀勝が異母兄の織田信雄と織田信孝に出席を求める書状を書いています。

織田信雄(右)と織田信孝/wikipediaより引用/wikipediaより引用

結局この二人は参加しませんでしたが、それにつけこんで次秀勝が織田家への出戻りや権利を主張することはありません。

実はこの葬儀の喪主も、名目上とはいえ次秀勝が務めていました。

血筋からいえば次秀勝は信孝のすぐ下なので、織田家の趨勢に口を出していてもおかしくはない立場。

それでも養子に出たということをきちんと理解して、秀吉の配下として振る舞い続けているのです。

秀吉からは可愛がられていたと見られ、一定の信頼も得ていたのでしょう。

清洲会議の後は、明智光秀の本拠だった丹波亀山城に入り、同年9月には、近辺の土地を自分の家臣に与えています。

すると同じ年に朝廷から従五位下・丹波守、続いて正四位上・侍従に叙任され、さらに同時期、毛利輝元の養女と婚約も結んで前途洋々に見えました。

 

急な体調不良からの早逝

天正十一年(1583年)4月に起きた【賤ヶ岳の戦い】でも、天正十二年(1584年)の【小牧・長久手の戦い】でも、御次秀勝は秀吉軍の一部将として働きました。

ところが小牧・長久手の頃には既に体調が悪かったらしく、途中で陣を引き払うことになります。

「天正十一年2月5日に次秀勝が体調を崩していた」

吉田兼見の日記『兼見卿記』には、そんな記述があるため、賤ヶ岳の戦いの前から体調を崩すことは珍しくなかったのかもしれません。

吉田兼見/wikipediaより引用

当時、次秀勝はまだ16歳。

幼い頃のことは不明ながら、もしも幼少期から体質が弱かったら秀吉の養子になっていないと思われるので、生来の持病というわけではなさそうです。

ただ単に風邪をひきやすかっただけか、あるいは悪性の病気を患っていたか……。

彼の近辺で病人が続出したというわけでもなさそうなので、疫病の類ではなかったのでしょう。

破傷風なら「矢傷がきっかけで体調を崩した」などの記録が残りそうなものですので、寄生虫病とかですかね。

ともかく早めに養生したおかげか、次秀勝はいったん回復。

天正十二年の年末、毛利輝元の養女と婚儀を挙げています。

毛利輝元/wikipediaより引用

そして翌年の天正十三年(1585年)夏には、従三位・左近衛権少将、追って正三位・権中納言へ叙任しており、このことから次秀勝のことを”丹波中納言”ということもあります。

位階上の話とはいえ、なかなか順調に出世しているのがわかりますね。

しかし……。

御次秀勝は、その直後、天正十三(1585年)12月10日に急逝してしまいました。

小牧・長久手で体調を崩してから二年足らずのこと。

タイミングといい、この時間といい、ゆっくり毒を盛られていたとしてもおかしくなさそうな気がしますが……秀勝が亡くなった当時、秀吉にはまだ実子がいませんでした。

淀殿との最初の子・鶴松は天正十七年(1589年)生まれ。

三番目の「秀勝」である小吉秀勝は、次秀勝とは立場が異なり、後継ぎ候補というより数いる養子の一人といった扱いでした。

そして小吉秀勝の実兄が、かの豊臣秀次となりますが、この時期にはまだ秀吉の養子になっていなかったと思われます。

豊臣秀次/wikipediaより引用

となると、次秀勝が斃れることで、秀吉の立場や豊臣政権の将来に暗雲が立ち込めるのは、当時の人にとっては明らかな状況だったわけで……なんだかキナ臭い感じになってきました。

もしも暗殺などが実行されていたら、いったい誰が犯人候補なのか?

 

暗殺の可能性を考えてみる

天正十三年当時の各地域における大大名の状況を見てみましょう。

◆九州

天正十三年9月11日(1585年11月2日)に立花道雪が病死し、切羽詰まった大友氏が翌年に秀吉へ助けを求める前

◆四国

天正十三年8月6日、長宗我部元親が豊臣秀長に降伏

◆関東

後北条氏が北関東へ侵攻中

◆東北

天正十三年(1585年)8月27日、伊達政宗が小手森城撫で斬り

こんな感じであり、当時の状況からして最も秀吉政権を崩したかったのは長宗我部氏でしょうか。

長宗我部元親/wikipediaより引用

次秀勝が亡くなったときには既に降伏した後のことですが、長宗我部元親の正室は美濃の石谷氏出身なので、妻やその実家を通して上方にツテがあった可能性は否定できません。

しかし現実的に、豊臣政権内がゴチャついたからって反旗を翻す程の状況ではないようにも思われます。

奥州の伊達氏は、距離がかけ離れているだけでなく、当時はまだ政宗の父・輝宗が存命中。

伊達輝宗/wikipediaより引用

輝宗は信長に対して鷹を送るなど、中央に対してはひとまず穏便に接しようとしていたので、いきなり荒っぽい手段は考えにくいものがあります。

政宗にしても、この時期はまだ東北の地ならしで手一杯ですので、秀吉相手に無理なリスクを負う必要はないはず。

こうなると、豊臣政権と敵対していた島津氏と北条氏に絞られそうですが……九州と関東の彼らが丹波にいた次秀勝のもとへ刺客を送るというのも少々非現実的ではないでしょうか。

他に挙げるとすれば、徳川家康も小牧・長久手の戦いで和睦を結んだとはいえ、秀吉の勢力拡大を嫌う一人。

徳川家康/wikipediaより引用

この時期、家康の勢力圏は災害が連発しており、兵で対抗するのは難しい状況でした。

秀吉が妹・旭姫や母・大政所を人質に出すことで丸め込もうとしてきている最中でもあります。

もしも次秀勝がいなくなれば「秀吉は跡継ぎ確保を優先するはず」と思っても不思議ではないですが……。

越後の上杉景勝はこの時点で秀吉に従う動きをしていたので除外。

毛利氏も前述の結婚や天正十三年(1585年)1月に豊臣政権との和睦(京芸和睦)が成立していることから除外して良さそうです。

となると豊臣政権内の誰かとか……?

仮に暗殺だった場合、次秀勝は時代の犠牲になったといえるのかもしれません。

あまり主張の強くなさそうな人柄からして、本能寺の変直後に殺された津田信澄(信長の弟だった織田信勝の息子)と似た立場といえなくもないところです。

しかし、次秀勝の場合は本当に病死だった可能性も高いので、実際は小説やドラマのネタになら……というレベルでしょうか。

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※1相応院は永禄四年(1561年)生まれのため、もしも養観院が彼女の生母だった場合、養観院の生年はもう少し早くなる可能性も


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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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