こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【豊臣秀頼】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
関ヶ原は秀頼忠臣ナンバーワン決定戦
文禄5年(1596年)5月13日、豊臣秀頼は初めて上洛を果たし、豊臣朝臣藤吉郎秀頼となります。
もはや長く生きられぬと悟ったのか。秀吉は、秀頼を支えるべく、五大老・五奉行による政治体制へ変えてゆきます。
それから二年後の慶長3年(1598年)8月、秀吉が死去。秀頼が豊臣家を継ぎ、伏見城から大坂城へ移りました。
しかし、五大老の徳川家康が公然と秀吉の遺命を軽んじるような行動を起こし、それに歯止めをかけていた前田利家が亡くなると、ますます抑えが利かなくなってゆきます。
慶長5年(1600年)、徳川家康は会津の上杉景勝を攻めるため、北へと出陣。
その間、専横を強める家康打倒のため、毛利輝元、石田三成らが挙兵しました。
秀頼は、このとき毛利輝元の庇護下に置かれています。
毛利輝元は関ヶ原の西軍総大将~なのになぜ敗戦後も家の存続を許されたのか
続きを見る
東西両軍の対決は、どちらが秀頼の忠臣であるか?という名目で競い合っていて、家康と三成、どちらが勝とうと秀頼はその相手を忠臣と賞賛するしかありません。
結果はご存知、【関ヶ原の戦い】に発展し、家康率いる東軍が勝利をおさめました。
徳川家康、征夷大将軍となる
かくして豊臣一の忠臣とみなされた家康。
西軍についた大名たちを改易、あるいは石高を大幅に削ると、慶長8年(1603年)、自身が征夷大将軍として幕府を開きます。
豊臣秀頼は天下人でなく、大坂城に居住する65万石の大大名という扱い。
しかし同時に、秀頼の正室として、家康の孫で徳川秀忠の娘である千姫が大坂城に送られました。
家康の孫娘で秀吉が義父「千姫」は大坂城を脱出した後どうなった?
続きを見る
そして将軍就任からわずか2年後の慶長10年(1605年)、家康は秀忠に将軍職を譲り、徳川家の世襲を示すのです。
思い返せば織田家は、織田信長と、家督を譲った織田信忠が同時に討たれ、急速に力を失いました。
豊臣家は秀頼がまだ幼いうちに秀吉が亡くなってしまった。
後継者をスムーズに擁立できるかどうか――これは天下を取ると同等かそれ以上に難しく、重要とも言えるでしょう。
東の徳川家は、征夷大将軍であり武士の頂点に立つ一方、西の豊臣家はあくまで摂関として扱われた。
『吾妻鏡』を愛読していた家康は、鎌倉幕府以来の東国からの支配を確立してゆくのです。
そして東西に分かれた体制は、この後も続いてゆきました。
二条城での会見と方広寺鐘銘事件
両家の関係にひびが入ったのは、慶長16年(1611年)のこと。
この年、後陽成天皇の譲位に際して家康が上洛すると、諸大名もこれに続きます。
このとき19歳となっていた豊臣秀頼は、織田有楽(信長の弟で秀頼の大叔父)を通して上洛を促され、家康は秀吉の遺児と二条城で面会を果たしたのです。
家康は何を思っていたのか……。
それから3年後の慶長19年(1614年)に【方広寺鐘銘事件】が起きます。
生前の秀吉は、戦乱で荒れ果てた京都に大仏を建立することを目指し、全国から金属を徴収しました。後世に【刀狩り】として知られる政策です。
しかし地震などの影響もあり、大仏再建は次代に持ち越されていた。
秀頼は寺社仏閣作りに注力しており、亡き父からの事業も平穏無事に終わるはずでした。
それが方広寺の梵鐘ができたことで暗転します。鐘銘文が不穏であると指摘されたのです。
有名な
国家安康
君臣豊楽
という文字ですね。
この二句のうち、前者は家康の「諱(いみな)」の間に文字が入っています。
後者は「豊臣を君として楽しむ」と読める。
弁明のため、片桐且元が家康のもとへ派遣され、淀殿も別途使者を送りました。
且元は彼なりのソフトランディング路線を提唱すると、これがかえって大坂方の不信感を募らせてしまいます。そのせいで追い詰められた且元は大坂を去り、調停役が不在となってしまった。
家康は激怒。
そして【大坂冬の陣】の戦端が開かれたのでした。
※続きは【次のページへ】をclick!