豊臣秀頼

豊臣秀頼/wikipediaより引用

豊臣家

豊臣秀頼は滅びの道を歩むしかなかった?秀吉と淀殿の息子 儚い23年の生涯とは

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大坂の陣にて散る

なぜ【大坂冬の陣】なんていう大戦に発展してしまったのだろう。

豊臣秀頼の脇が甘かったのか。

それとも母の淀殿が情勢を読めず大坂方は自ら死地へ向かってしまったのか。

そこには個人の能力ではどうにもならない状況があったとも言えるでしょう。

応仁の乱】以来、武力でことを収めてきた日本人は気性が非常に荒く、戦乱の世に戻りかねない危惧がありました。

豊臣秀吉の血を引く秀頼には、将兵を奮い立たせるカリスマもあります。

方広寺鐘銘事件においては不幸な行き違いもありましたが、とにかく血の気の多い浪人たちが、大要塞といえる大坂城に続々と集ってくる――そんな状況を江戸幕府が放置できるわけもありません。

かくして冬の陣が勃発し、一旦は講和に持ち込まれたものの、翌元和元年(1615年)に【大坂夏の陣】へ。

大坂城には火が放たれ、猛火のなかで秀頼は淀殿と共に命を落としました。

享年23。

秀頼の遺児である国松は処刑されました。

しかし女児は救出され、鎌倉東慶寺で出家し、天秀尼となります。

東慶寺は女性にとってのアジール「駆け込み寺」として知られるようになります。

その一例が寛永16年(1639年)――会津藩主である加藤嘉明に耐えきれぬ家老・堀主水らが、主君を見限り、会津を旅立ちました。

堀主水は高野山に逃れましたが、嘉明の厳しい追及に耐えきれず、引き渡され、処刑されてしまいます。

一方、尼寺の東慶寺に逃げ込んだ堀主水の妻子はどうなったか?

というと、天秀尼は凛然と嘉明の要求を断り通しました。

豊臣の血は途絶え、家こそなくなりましたが、秀吉の孫は芳名を歴史に刻んだのです。

 

どうすれば秀頼は助かったのか?

豊臣家のプリンスである豊臣秀頼は結局死ぬしかなかったのか?

非業の死から逃れる術があるとすれば、どうすればよかったのか?

この顛末を目撃していた伊達政宗が、書状でこう振り返っています。

今月6日から7日にかけて戦があり、大坂方はみな負けた。

8日には秀頼とお袋が焼け残った土蔵に入って、腹を切ったと。

あのお袋も、口ほどもなく無駄死にしたわけよ。

政宗は口が悪く、ありのままのことを書き記します。秀頼に「公」をつけず呼び捨てにし、露骨に軽蔑しています。

実は政宗は、関ヶ原の後、秀頼が生き残るための提案をしています。

豊臣家を存続させたいなら、いっそ家康のもとで秀頼を育てること――。

しかし、その意見が採用されずに滅亡したのだから、自業自得だと突き放しているのです。

「俺の予想した通りだろ」とでも言いたげな、政宗らしい心情も窺えますね。

豊臣家滅亡の当事者である秀頼は何度もフィクションに登場していますが、あくまで脇役としての出番に限られます。

滅びゆく家の当主として。

母の淀殿に頭のあがらぬ頼りない貴公子として。

真田幸村が掲げる大義として。

頼りない存在なのか、父譲りのカリスマがあるのか。

そこは作品ごとの解釈次第であり、『どうする家康』ではこう記されていました。

圧倒的なオーラを放つ、豊臣家の若きプリンス

「秀吉最愛の女性・茶々(淀君)の次男。秀吉亡きあと、豊臣家の復活の期待を背負う若きプリンス。二条城で成人した秀頼に対面した家康は、凛々しく聡明な彼の姿に、圧倒的な脅威を感じる。」

伊達政宗なら

「イケメンだろうがカリスマだろうが、徳川に目をつけられたらどうにもならん!」

とぶった斬るかもしれません。

今川氏真にせよ、武田勝頼にせよ、先代が残した失点を覆すのは難しく、結果、大名としては滅びの道を辿っています。

その滅びに至る道筋を描くことで、個人ではどうにもならなかったと示す解釈もできる。

大河ドラマ『真田丸』で中川大志さんが扮した秀頼は凛々しく、「今度こそ勝てるのではないか?」と放送当時は話題になったほどでした。

暗愚に描かれることの多かった秀頼像は、あの作品を転機に覆されたといってよいでしょう。

しかしくどいようですが、秀頼の破滅は構造的欠陥から生じたと言える。

父が57歳の時に生まれた。

物心つくかつかないかの段階で中継ぎだったはずの豊臣秀次が死に、その事件後の大量処刑で複数の大名から恨みを買った。

政宗の言うように、関ヶ原後は徳川に対して下手に出ていたらよかったのに、それすらしなかった。

父母の代からの負債が積み重なり、追い詰められたと言える。

当人の才や努力では、どうしようもなかったのかもしれません。

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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
福田千鶴『淀殿』(→amazon
別冊歴史読本『太閤秀吉と豊臣一族』(→amazon
新人物往来社『豊臣秀吉事典』(→amazon
歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(→amazon

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