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【御土居】
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太平の世で埋もれてゆく
御土居は存在感が薄れてゆきます。
徳川幕府が構造を変えてしまい、本来の目的も意図も不明瞭となってしまったのです。
太平の世では、防衛機能など邪魔なだけで、そもそも侵入を拒むような敵もいません。
防御強化のために竹林を植えたせいか、だんだんと竹林のほうが主たる構造のようになってしまう箇所も出てくる。
その結果、堤防の役目を果たしていたものを例外として、御土居は街の中に溶け込んでゆきました。
移築や破壊もあり、原型がわからなくなってしまったのです。
それが明治~大正の頃になると、ようやく史跡保存の意義が見出され、論文が発表されるようになります。
最初に史跡として指定されたのは、昭和5年(1930年)になってからのことでした。
天下人・豊臣秀吉が大々的に建てたのに、ここまで時間がかかったというのは驚くべきこと。
しかし、現存する写真を見ると、それも無理のないことと思えてきます。
街に溶け込んでいて、よくよく目を凝らさねば遺跡なのか単なる土手なのか、よくわかりません。
気づかれずに放置気味の箇所もあるというのも無理はないでしょう。
京都観光でも御土居巡りツアーなんてありませんもんね。秀吉の功績としても注目されない。
それでも、これは興味深い遺跡ではないでしょうか。
海外との比較で見えてくる日本の特徴
日本の都市や防衛には一体どんな特徴があったのか?
日本史だけを追っていると、かえって見えにくくなると思えます。
海外の城郭や都市防衛を知ることにより、その特色が浮かび上がってくる。
かつて、こんな意見を耳にしたことがあります。
「中国史の観点からすると、そもそも日本に“都市”と言えるものはない。【郭】もない都市と言われても、それは認めがたい」
前述の通り、中国製の戦国時代アプリでは高い壁に囲まれた不思議な都市が出てきます。歴史認識の違いが如実に現れた現象でしょう。
しかし、壁で囲まれているから都市である、とか、そうでないから都市ではない、とか、優劣を基準に考えても仕方ないことではありませんか。
国家の経済規模や防衛機構は、資源や人口、気候条件により決まります。
そこで民族としての優劣を競っても意味のないことでしょう。
その土地土地で、最適解の都市を作ることが最も重要なはず。それが為政者の仕事だとすれば、豊臣秀吉はそこから一歩逸脱しているようにも思えて興味深いのです。
中国型の城郭都市を背伸びして目指す。
それと同じ発想が【中華秩序】から逸脱した【朝鮮出兵】に向かったとなれば、その発想を考察することも意義があるのではないでしょうか。
なお、繰り返しますが、御土居は不明点が多く、確定していることはほんの少ししかありません。
本稿では中国の城郭都市をヒントに考察を進めましたが、あくまで筆者個人の考えであることをご理解ください。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
新人物往来社『豊臣秀吉事典』(→amazon)
岡本隆司『中国史とつなげて学ぶ 日本全史』(→amazon)
岡本隆司『世界史とつなげて学ぶ 中国全史』(→amazon)
小島毅『子どもたちに語る日中二千年史』(→amazon)
他