2019年大河ドラマ『いだてん』は、複雑な構成のドラマです。
主人公・金栗四三のストックホルム五輪(1912年)への挑戦過程が、東京五輪(1964年)前夜の古今亭志ん生(ビートたけしさん)が語ることによって進みます。
そんな昭和時代の志ん生に入門した青年が、五りんです。
金栗四三ともつながりがあるらしい五りんは、宮藤官九郎氏のオリジナルのキャラクター。
あれ?
だったら、史実の志ん生に弟子はいなかったのかな?
ということではありません。
ドラマでは荒川良々さんが演ずる「今松」こと「二代目古今亭圓菊」が献身的に師匠を支えたのです。
落語の師匠としての古今亭師匠は、弟子から見てどんな人物だったのか?
はたまた古今亭圓菊本人はどんな人だったのか?
ちょっと探ってみましょう!
なお、『いだてん』では「今松」(六代目むかし家今松)と呼ばれており、本稿でもその呼び名で統一します。
※こちらが今松のモデルとなった二代目古今亭圓
菊古今亭圓菊の初代は、古今亭志ん生が名乗った名跡です。
二代目が本稿で扱う人物であり、2019年現在三代目はおりません。
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できた苦労人、それが今松
圓菊は昭和3年(1928年)、静岡県志太郡伊久身村(現:島田市)に誕生しました。
古今亭志ん生に入門したのは昭和28年(1953年)。
そこから古今亭生次を名乗ります。
昭和32年(1957年)、二つ目に昇進すると、六代目むかし家今松となり、続けて東京オリンピック後の昭和41年(1966年)、真打として二代目古今亭圓菊を襲名しております。
『いだてん』の舞台となる時空では「今松」で通されるということです。
『いだてん』では、古今亭志ん生の自宅にやって来ては、生意気な五りんに苦い顔をしている今松。
古今亭志ん生の妻・りんや、長女・美津子とも親しそうにしております。
それもそのはず、24という年齢で入門してきた今松は、気が利いていて世の中のことをよく知っていると、美濃部家の人たちからも一目置かれていました。
性格はとても優しく、きっと苦労人なのだろうと周囲は思っていたのです。
入門が遅かった今松は、苦しいことも多いものでした。
24歳ともなれば、二つ目になっていてもおかしくありません。
それが入門し立てですから、侮られることも多いのです。おまけに落語についても、入門時はよくわかっていなかったのだとか。
今松は、もうあとがないからとじっと耐え抜きました。そういう苦労が、彼の性格を作ったのでしょう。
その性格のため、美濃部家の人々や一門から尊敬を集めるようになったのです。
人格者――それが今松でした。
頼りになる今松
今松は、献身的な弟子でした。
まだ美濃部一家が寝静まっている早朝、家にあがると便所掃除から始まって、掃除や布団干しを朝食前に済ませます。
本棚掃除中に今松がでっぱったものを引っ張り出すと、サントリーの角瓶だったこともあるそうです。
師匠が酒を隠し飲みしていたわけですね。
冷や酒をきゅーっと飲んでから、好物の納豆を食べる志ん生らと、今松は朝食を囲みました。
志ん生は、よくこう言っていたそうです。
「今松、あれを出せッ! これを持ってこい!」
そう言われると、ホイホイと何でも差しだしていたのだとか。
金以外は何でもあり場所を知っているんだろうねえ、と周囲は驚くほど。
志ん生は江戸っ子らしく、銭湯に行くのが大好き。
倒れて歩けなくなってからも、今松に背負われて通ったものです。
他の弟子は、いきなり熱闘を志ん生の毛のない頭にザーッとかけてしまう。
ところが、今松はぬるま湯をそっとちょろちょろとかけるのです。
他のお弟子さんとは違う——志ん生本人も、家族も、今松ならば安心だと任せていたところがありました。
家族でないようで、家族以上のつながりがある。それが今松であったのです。
志ん生とりんの愛情
破天荒で知られた志ん生とはいえ、今松のことは可愛がっていました。
志ん生と今松が歩いていると、あんみつでも食べようと誘ってくることもあったのだそうです。
今松が貯金をしていて、洋服が欲しいのだと説明すると金を渡してきたり。
結婚2年目で、稼ぎがないから子供を作れないと言うと、こう答えたそうです。
「そうじゃないよ、子供が食い扶持を持ってくるんだよ」
子供さえいればむしろ上向きになるということでしょうか。
志ん生の人生を考えると、納得ができるような、できないような――そんなふうに励ましてくれる師匠だったんです。
可愛がってくれたのは、志ん生夫人のりんもそうです。
貧乏暮らしが身に染みていたからこそ、ともかく食べなくちゃだめだと、たっぷりと用意してくれたのだそうです。
りんは、芽が出ないからやめたいと今松から告げられると、志ん生の紋付をこっそりと渡してきました。
これを着られるように二つ目までがんばってみなさい、ということです。
今松はその後奮闘し、落語家としての道を歩むことができました。
とはいえ、志ん生は弟子を可愛がるだけで済めばよいものを、道楽ぶりも伝授しようとしたと思われるフシもありまして。
遊ばないとダメだ!
と弟子たちに博打を勧め、怒ったりんが花札と便所に捨てたのだとか。
りんもいる前で、他の女の話を平然とすることもあったそうです。
これには今松も気まずかったことでしょう。
酒飲み師匠との攻防
『いだてん』でも、周囲が止める中、志ん生が酒をグビグビと飲む場面があります。
志ん生はともかく酒が大好き!
今松に札を渡して、
「これで酒を買って来てくんな」
と言うものだから、りんや美津子がカンカンになって止めることもしょっちゅうでした。
家族はそんな飲酒を止めるべく、こっそり一升瓶に水を混ぜていたそうです。
「なんだ、水くせえ酒だなあ」
と、志ん生は言っていたそうですが、気づいていたのか、そうではないのか。どちらでしょうか。
そんな志ん生ですから、移動中、酒屋の前を通ると大変なことに。
「おろせ、ここで飲むんだッ、おろせ、おろせ!」
そう騒ぎ出す志ん生。
慌てる今松。
そんなことはしょっちゅうでした。
美津子にバレたらどう言い訳すればよいのかと悩みながら、今松は師匠に酒を飲ませるのです。
家では二級酒、しかも水で薄めてあるのに、酒屋では絶対に特級を頼むものですから、気持ちよくなってすぐにグデングデン。
そんな状態で帰宅するものだから、美濃部家はカンカンになって今松にも怒るわけです。こりゃ弟子も大変ですわ。
ともかく志ん生の酒好きは、とんでもないもので。
朝食前に冷や酒を一杯、というのは前述の通り。
好物の天丼にまで、ざぶっと酒をかけてしまったというのですから、とんでもない話です。
志ん生は甘い物も大好きで酒飲みですから、歯はボロボロでついには総入れ歯になってしまったのだとか。
志ん生が酒に自信を持ったのは、満州引き揚げも一因でした。
体を壊すからせいぜいグラス二杯までというウオッカを、死のうと思って6本ぐいぐいと飲み干したのです。
これでも死なないわ、医者から褒められるわ、それでもう負けなしと思ってしまったようでして。
双葉山との飲み比べは、体格差もあって完敗したそうですが……。
背中で覚えた芸
昭和36年(1961年)、『いだてん』でも描かれるであろう大事件が起こります。
脳溢血で志ん生が倒れてしまったのです。
ラジオ時代に人気が出て、さあこれからテレビ時代だと上り調子のころでした。
入院すら拒もうとしたというほど強気だった志ん生も、半身に麻痺が残ってしまいます。
そんな師匠を背負って移動したのが、今松でした。
師匠を背負い、高座へ、銭湯へ。
車にも一緒に乗る。
今松は、そうやって師匠とともに歩んだのです。
のちに今松が真打ちになるとき、こう評されたのです。
「この人は、背中で芸を覚えた」
これこそが、今松の真骨頂かもしれません。
今松の目から見た師匠の志ん生は、破天荒で子供のような人ではあるものの、芸には熱心でした。
読んだ跡だらけの本が枕元に置かれていて、満州でもそうだったとか。
志ん生は生涯、四代目橘家圓喬が師匠だと言い続けておりました。
三代目三遊亭 小圓朝の弟子だと言われると、断固として拒んでいたそうです。
四代目橘家圓喬の話し方に惚れ込んで、ものにしようと練習に励んでいたからこその意地だろうと、今松は思っていたそうです。
そんな志ん生は、
「落語は正宗の刀であれ」
と語っておりました。
エイヤッと斬ったらば、スパッと斬れなくちゃならねえという意味でしょう。
そんな師匠の教えと、人格者としての一面があわさっていたのが、今松ことのちの二代目古今亭圓菊。
手話落語を創案し、刑務所篤志面接委員を務めます。そこからは、彼の優しさが伝わって来ますね。
師匠のあと、古今亭一門の総帥となったのもうなずける、それが彼の性格でした。
志ん生の死語も、美津子ら美濃部家との交流は続いていました。美津子は、彼こそ一番の思い出話があるはずだと思っていたそうです。
そんな彼の受賞歴は、華やかなものです。
昭和56年(1981年)、厚生大臣賞。
昭和57年(1982年)、法務大臣賞。
平成3年(1991年)、東京都功労賞。
2012年(平成24年)に享年84で亡くなるまで、温かい心で一門を包んでいた、それが彼の一生でした。
文:小檜山青
【参考文献】
『落語家円菊 背中の志ん生―師匠と歩いた二十年』古今亭圓菊(→amazon link)