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楢崎龍説のある写真/wikipediaより引用

西郷どん(せごどん)特集 幕末・維新

おりょう(楢崎龍) 坂本龍馬の妻66年の生涯~夫の死後はどう過ごした?

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幕末人気ランキングがあれば、今も将来も、ずっと1位に輝き続けるであろう坂本龍馬

その魅力はなんと言っても【自由な気風】にあると思われますが、同時に彼の人気を陰ながら支えているのが
・妻のおりょう(楢崎龍)
ではないでしょうか?

敵の襲撃を察知して無事に龍馬を逃した機転。
人斬り半次郎相手にも一歩も引かなかった肝っ玉の強さ。

そうかと思ったら龍馬と一緒に「薩摩ハネムーン」を楽しむ女性らしいお話も現代人の胸を打つ――。

今回は楢崎龍(以降・おりょう)の生涯を見ていきたいと思います。

 

生まれは京都 曽祖父は長州藩士

龍馬の妻となるおりょう。
その生まれは、尊皇攘夷派と縁の深いものでした。

おりょうの曾祖父は長州藩士です。
ところが何らかの落ち度で除籍され、京都に流れてきたのです。

父である楢崎将作は、久邇宮朝彦親王(中川宮)の侍医をつとめたこともあるインテリでした。
皇族や公家とも交流があり、一橋派の活動家である頼三樹三郎や池内大学とも交際がありました。

そのため、安政5年(1858年)の「安政の大獄」で捕縛されてしまいます。
翌年には釈放されたものの、牢獄での暮らしがたたったのか、文久2年(1862年)に亡くなってしまいました。

おりょうの母・貞と遺児たちは残され、楢崎家の人々は困窮しておりました。その弱みにつけこんで、おりょうの妹が大阪の遊郭に売り飛ばされそうになります。

おりょうは遊郭に乗り込むと、絡んできた男を殴り飛ばし、火鉢を投げつけ、妹を取り返して京都まで戻って来ます。

気が強く、大胆な性格だったのですね。
龍馬は、この武勇伝を聞いて「面白い女だ!」と大喜びしたとか。

心細く貞が暮らしていると、その友人が浪人たちの面倒を見る女性を探している、と頼んで来ました。
勤王医者の妻ですから、貞は危険を伴うこの役目を快諾しました。

 

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龍馬とおりょう 出会いは?

浪人たちの世話をする中で、坂本龍馬と出会った貞。
貞が身の上話をすると、龍馬は同情しました。

「おまさんも苦労をしちゅーんじゃのぉ。おまさんの娘さんを、うちの嫁にくれんか」

母である貞は、そろそろおりょうに夫を持たせようと思っていました。
どうせ夫にするならば、龍馬こそぴったり、ありがたい話です。おりょうも龍馬とは面識があり、好印象を抱いていたのでしょう。こうして、話は進んでゆきました。

坂本龍馬/wikipediaより引用

両者は運命の相手でもあったのかもしれません。
同じ「龍」の字が名前に含まれていることを知り、これは面白いと龍馬は語ったとされています。妹を取り戻した武勇伝も、いかにも彼好みです。

時は元治元年(1864年)夏。
この年、京都では「池田屋事件」と「禁門の変」が起きました。

貞も会津藩に捕らわれ、龍馬とおりょうの知り合いである望月亀弥太が池田屋事件で殺害されるという、大変な時期。
8月、龍馬とおりょうは内祝言をあげ、夫婦となりました。

しかし多忙の折、激動の時代です。
夫婦水入らずで過ごすこともできないまま、おりょうは寺田屋に預けられたのです。

 

人斬り半次郎に迫られて

おりょうは、寺田屋の女将・お登勢のもとで、「お春」と変名を使って働き始めました。

そんなあるとき、中村半次郎(のちの桐野利秋・このときの変名は村上伴左衛門)が大山実次郎とともに、寺田屋に泊まりに来ます。

しかし、中村があまりに粗暴なので、
「嫌やわあ、薩摩隼人は気が荒うてかないまへん」
と給仕の女性たちが嫌がったのです。

人斬り半次郎こと桐野利秋/Wikipediaより引用

これにイラ立った中村は、食器をブン投げて暴れます。うーん、そんなことをすればますます嫌われ……。

「うちに任せておくれやす」
気の強いおりょうは、二階の中村のところに行くと、手酌で酒を5、6杯飲み干しました。
流石の中村も、若い女がいきなりこんなことをしてきたので、唖然としてしまいます。

「暴れても仕方ありまへん。器量が下がるだけやおまへんか。うちがつきあうたるさかい、十分召し上がっとくれやす」

おりょうはそう言うと、【人斬り半次郎】を恐れることもなく、二人で差し向かいになって飲み続けたのでした。
さんざん飲んだ後片付けて、おりょうが自室で寝ておりますと、人の気配がします。

「わいはよかおなごだ。今夜はおいと寝てくれ」
そう凄んできたのです。

おりょうは笑い飛ばしました。
「うちを誰やと思うとりますのん? 寺田屋のお春どす。うちは宿場女郎とちゃいます。人を見て口説いてくどいとくれやす」
そう言って手を払うと、肌身離さず持つ短刀がポロリと落ちます。

「わいは何者や。ないごて短刀を持っちょっど。あやしかおなごだ!」
中村は慌てておりょうを引っ張って、大山の部屋まで連れて行きました。

「おなごに短刀なんて必要なか。奉行ん回し者じゃな、行動もあやしか。おとなしゅう白状せえ!」
ギラリと人斬り半次郎に睨まれても、おりょうは退きません。

楢崎龍説のある写真/wikipediaより引用

「おなごにも短刀は必要どす。今夜のように、暴れ者が夜這うてきたとき、この短刀で刺してやろうと持っていたもの、あやしいと思うなら好きにすればよろし」
「うぬぬ……」

中村は反論できず、顔を真っ赤にしております。

ここで大山が、
「ちょっと短刀を見せてみやんせ」
と言い出しました。それから半次郎の袖を引きます。

「わいも冗談はほどほどにしやんせ。こんしは坂本龍馬先生ん奥様じゃ。こん短刀は坂本先生ん差し料ん【越前国広】じゃっで間違いあいもはん。坂本先生に隠し妻がおっとは聞いちょったが、まさかこんしとは。とんだことをしてしもうたね」

中村はたちまち慌てました。
「ごめんなせ、許したもんせ! これは失礼した!」

そう謝り、翌日には中の島でおりょうに食事を奢ったそうです。

「どうか昨晩んこっは、坂本先生には内緒にしたもんせ」
そう口止めしながら、大慌てで薩摩に戻ったそうです。

龍馬は、薩摩藩の多くの人々、西郷隆盛小松帯刀とも親しい仲です。
この事件が発覚したら、そりゃ大変だったでしょう。

 

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密書を仲介し、隊士を世話し

おりょうは勇敢な女性でした。
新選組が目を光らせている京都で、活動家の妻や恋人であることは、生半可な覚悟ではできません。

おりょうは、夫のために様々なことをしました。

・密書を仲介する
・海援隊の隊士の世話をする

龍馬の活躍は、こうしたサポートあってこそなんですね。

そしておりょう最大のファインプレーは、慶応2年(1866年)の寺田屋における龍馬襲撃(寺田屋事件)において、危難を知らせたことでしょう。

入浴中のおりょうが咄嗟に湯船から飛び出し、袷一枚だけを着て龍馬に聞きを知らせる場面は、幕末ファンならおなじみです。
このあと薩摩藩邸に逃げ込み、そのまま薩摩で「ハネムーン」を満喫したことも、よく知られています。

※「竜馬ハネムーンウォーク」というイベントも開催

坂本32才、おりょう26才。
若い二人は名峰・高千穂峰にのぼって「天の逆鉾」を引き抜こうとしてみたり、「塩浸温泉」に入ってみたりしています。

10日ほど滞在し、西郷の妻・西郷糸子岩山糸)にも歓待を受けています。




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旅の詳細は以下の記事にございますので、よろしければご覧ください。

坂本龍馬とお龍さんのハネムーンってどんな感じ?龍馬2度の薩摩旅

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