明治七年(1874年)2月1日は、佐賀の乱が勃発した日です。
明治初期に頻発した不平士族の反乱のひとつ、といえばそうなのですが、この乱についてはもう一つポイントがあります。
「征韓論に対する賛成・反対」です。
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明治初期の士族反乱マトメから
まず征韓論を中心に、明治初期のできごとを時系列順にまとめると、こんな感じになります。
【受験にも出そうな明治初期まとめ】
明治元年(1868年)戊辰戦争開始・明治へ改元
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明治二年 戊辰戦争終結・版籍奉還
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明治四年 廃藩置県・岩倉使節団出発
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明治六年 徴兵令・岩倉使節団帰国・明治六年の政変
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明治七年 佐賀の乱
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明治十年 西南戦争
最初にザックリと「佐賀の乱は明治六年の政変と西南戦争の間にあった」ということを押さえていただければ、今回のお話についての支障はないかと。
ことのキッカケとも言える征韓論は、岩倉使節団が欧米に行っている間、日本国内での政治的対立を生んでおりました。
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「征」という字がつくことから、「征韓論賛成派は、すぐに戦争をしようとした物騒な人たち」というイメージが先立ちますが、西郷隆盛などは「朝鮮に開国を勧めよう」と考えており、そうとも限りません。
一方、西郷の友人でもあった大久保利通をはじめ、その他の反対派は「今は朝鮮に構うより、欧米やロシアとの関係について熟考して動くべきだ」としていました。
ですので、厳密にいうなら「朝鮮との関係を優先するか、後回しにするか」という議論だった、とするほうが正しいような気もします。
征韓論に敗れた数百名が下野してしまい
結果として「朝鮮に積極的に関わるのは時期尚早」ということになりました。
同時に賛成派の600人ほどが政界を離れて下野することになり、これが「明治六年の政変」と呼ばれます。
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しかし、役人がこんなにいなくなったのでは、反対派にしても困ります。
ただでさえ維新から日も浅く、人手はいくらいても足りないのです。
そのため大隈重信らは「今度のことでは対立したけど、いずれまた政治に携わってもらうこともあるだろうから、地元に帰るなんてことはしないように。今帰ったら、大久保たちの思う壺だぞ」と賛成派を慰留しました。
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しかし、頭に血が上ってしまっている賛成派の多くは、慰留も聞かず地元へ。
その中に、佐賀の乱で中心となる江藤新平がおりました。
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維新の十傑にも数えられ、明治になってからは民法制定などに尽力した人です。
当然、影響力も強いワケです。
彼が帰郷した頃、佐賀では征韓論賛成派(以下「征韓党」)と、「新政府なんてくそくらえ! 封建制のほうが日本には合っている!」とする「憂国党」という派閥ができていました。
征韓党が同じ考えを持つ江藤を旗頭にするのも、ごく自然な流れです。
少しずつ情勢がキナ臭くなる中、憂国党がちょっとしたトラブルで暴力沙汰を起こしてしまい、明治政府から軍へ鎮圧命令が出されます。
これが佐賀の乱の端緒となりました。
一般人を集めた軍隊が氏族相手に通用するか?
当初は三条実美が「佐賀の七賢人」の一人である島義勇(しまよしたけ)に「ちょっとなだめてきて」と依頼した事もありました。
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が、島は佐賀へ向かう船の途中、佐賀士族を見下す役人の言動を目にして「先祖代々の土地を守るため、明治政府の軍を追い払わなければ!」と、愛国心ならぬ愛郷心を爆発。
共通の敵は、人を団結させる最も強力なキッカケになるわけで……。
中央にいた頃、江藤と不仲だった島ですが、これにより協力して明治政府と軍に対抗することになってしまいます。
こうして佐賀の征韓党と憂国党は、協力して明治政府を相手に戦うことに……となりそうなものですけれども、実際にはそうではありません。
この二つは別々に司令部が存在していたので、連合軍とはいえなかったのです。
たまたま同時期に明治政府への反感を持っただけで、その理由もポリシーも全く違いました。
一方、明治政府は強力な中央集権をモットーとしています。
それは軍事面でも同じで、徴兵令はその一環でした。
一般人を軍事的な意味での一人前にすることができれば、いつまでも士族に頼らなくて済む。士族の権益を保ては、いずれ旧佐幕派が勢力を伸ばし、政府を転覆しようと企みかねません。
封建制にもそれなりのメリットはありますが、明治政府としては何としても防ぎたい事態でした。
佐賀の乱は、そんなタイミングで起きたのです。
佐賀城での攻防で鎮圧軍の1/3が戦死!?
話を佐賀の乱に戻します。
こうしてちょっとしたトラブルから始まった佐賀の乱。
さっそく、大久保の主導で鎮圧軍が差し向けられました。
現地に近い熊本鎮台(基地のようなもの)では、佐賀出身者も多く混乱も起きましたが、やがて陸海両路で進軍開始。
鎮圧軍が佐賀城に入ると、まず江藤から使者がやってきました。
江藤としても、改めて政府の意思を確かめたかったのです。
しかし、ここで鎮圧軍のトップが「答える必要はない」と完全に拒絶してしまったことで、名実ともに戦闘が始まってしまいます。
籠城戦の場合、通常であれば城側が有利になるはずです。
実際、この反乱における鎮圧軍の死者のほとんどは、この佐賀城攻防戦でのものでした。ここにいた鎮圧軍の約1/3が戦死したそうです。
何がどうしてそうなった。
江藤が佐賀を離れて鹿児島へ!?
緒戦で鎮圧軍が敗走した後、大久保率いる後続が福岡までやってきました。
大久保は兵をいくつかに分け、福岡の多方面から佐賀へ進軍させました。途中であまり協力的でない地域にも、征伐に加わるよう説得させたりもしています。
一方、征韓党は長崎街道沿い、憂国党は筑後川沿いに兵を進めることで同意し、それぞれの鎮圧軍を迎撃しました。
このあたりから、両軍の物理的な優劣が際立ち始めます。
戦にはセオリーとも呼べる戦術がいくつかありますが、その中でも「小勢で大軍と真正面から戦ってはならない」というのは最たるものです。数で対抗できないのなら、地の利や天候を利用したり、夜襲や奇策を用いたり、地元民に協力を頼むなど、別の工夫で補わなくてはなりません。
征韓党にも憂国党にもこの概念があまりなかったらしく、敗退が続きます。
それぞれの党内での結束は固く、狭い道で一時的に善戦したり、「官兵殆ど敗れんとす」と評されるまでの戦いぶりも見せたのですが、ここで想定外の事態が起きます。
敗戦が続くのを見て、江藤が憂国党への相談なしに、征韓党を解散してしまったのです。
しかも江藤自身は鹿児島の西郷隆盛を頼って、佐賀からも離れてしまいました。

佐賀城の鯱門に残る銃痕、生々しい……/Wikipediaより引用
島は逮捕され、西郷や土佐を頼ろうとした江藤も捕まり
当然ながら憂国党は激怒しますが、そう簡単に降伏することもできません。さらに数日間戦って意地を見せました。
しかし、戦力差はどうにもならず、ついに2月28日になって降伏の使者を送ったものの、受け入れられません。「文書の内容が失礼」という理由だったそうですが、ここまでで鎮圧軍も相当の犠牲を出していますので、どちらにしろ簡単には降伏を認めなかったでしょうね。
島はこれを知って討ち死にを覚悟したものの、弟たちが無理やり脱出させています。その後は島津久光を頼ろうとして鹿児島に向かい、その途中で捕まりました。
同じく鹿児島に向かった江藤らは先に到着し、西郷隆盛にも会ったようです。
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しかし、西郷は元々手荒な手段には反対でしたから、この時点では決起するつもりもありませんでした。そのため江藤は土佐の征韓派を頼ろうとしましたが、手配書が回っており、やはり逮捕されてしまいます。
二人を含む佐賀軍の中心人物は裁判にかけられた後、判決が出た4月13日に斬首刑となりました。
江藤と島の首は晒されています。
ウィキペディア先生の江藤のページにその写真があるので、苦手な方はご注意ください。ブラウザの環境によってはいきなり出てきますからね……。
最初から判決ありきと疑われる
あまりにも処刑が早かったので、当時すでに「最初から判決が決まっていたのではないか」と言われていたようです。
それだけに江藤や島へ同情する庶民も多く、「江藤の首塚に参ると眼病が治る」「訴訟がうまくいく」「災いが去る」などの迷信もささやかれました。
また、このとき日本にいたイギリス公使ハリー・パークスも「この判決は大きな不満を呼んでいる」と自国の外務大臣宛てに書き送っています。
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この動きは数十年残り、大正八年(1919年)になってから江藤や島を含めて特赦が行われ、地元民によって佐賀の乱戦没者の慰霊碑が建てられました。
また、佐賀の乱で生き残った征韓党や憂国党の残党の中には、西南戦争に参加した人もいたそうです。
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この二つからも、佐賀の乱の心理的な影響は長く続いたことがわかりますね。
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【参考】
国史大辞典「佐賀の乱」
不平士族の反乱
『幕末維新大人名事典(新人物往来社)』(→amazon)
『全国版 幕末維新人物事典』(→amazon)
佐賀の乱/Wikipedia