大隈重信

佐賀藩時代の若き頃とアカデミックドレスを着用した大隈重信/wikipediaより引用

幕末・維新

生粋の武士だった大隈重信が片足を喪ったのはナゼ?85年の生涯まとめ

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英語学習をしよう! 世界の秩序も!

幕末の大隈は、尊皇攘夷や倒幕派としての動きも見られます。

文久3年(1863年)、長州藩が下関で外国船を砲撃した際には、長州藩の援助を計画。

さらに元治元年(1864年)の【長州征伐】では、

長州征伐(長州征討)
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藩主・鍋島閑叟直正(なべしま かんそう なおまさ)を説得し、幕府と長州の間で和平を結ばせ、中止しようとしております。

鍋島閑叟直正/wikipediaより引用

このような政治活動は、実はさほど大勢に影響を与えられてはおりません。

むしろ大隈は、やはり英語への熱意に溢れており、そのチャンスを待ちわびていたのです。

慶応元年(1865年)。

お隣・長崎で、念願の英学塾「致遠館(ちえんかん)」が設立されました。

教授は、オランダ系アメリカ人宣教師・フルベッキ。

そして経営にあたるのは、フルベッキから英語を学んだ大隈と副島です。

塾経営については、当初、重臣から反対論がありました。

しかし、この頃には藩主を引退をしていた鍋島閑叟が理解を示し、ゴーサインが出されたのです。

致遠館の学生たち『フルベッキ群像写真』と呼ばれる/wikipediaより引用

ここで大隈が学んだことは、英語だけではありません。

・聖書
・アメリカ独立宣言
・「万国公報」

フルベッキから聞かされる最新鋭の世界の法や精神について次々に刺激を受けておりました。

それだけではなく、副島種臣とは遊郭でよく遊び、しかもモテたそうで。

ただ、遊びばっかりというワケではなく、こうした場所でないと語り合えないと話し合えない事情も抱えておりました。

事情とは何なのか?

というと、これが倒幕の秘策なのですから致し方ないでしょう。

大隈は、京都・兵庫・長崎等に向かい、尊皇攘夷派として活動しておりました。

慶応3年(1867年)には副島と共に、脱藩上京。

徳川慶喜に政権返還を勧告しようとしたのですが、実は肥前藩自体は、こうした動きに否定的でした。二人は佐賀へ送還され、一ヵ月の謹慎処分にされてしまいます。

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鍋島閑叟は英明でしたが、そんな彼でも倒幕に一枚噛むことは許せなかったのですね。

薩長土肥と呼ばれながら、実質的には薩長に大きく水を開けられるのは、こうしたところが響いたのでしょう。

しかし、有能な彼らがいつまでも放置されたりはしません。

明治維新がなった明治元年(1868年)3月。

徴士参与、外国事務局判事として大隈は横浜在勤を命ぜられます。

英語と法律を知る大隈は、新政府にとっても魅力的な人材だったのです。

 

パークスと火花を散らすも「万国公報」で反撃!

新政府でも屈指の実力者であった大隈は、

【キリスト教徒処分問題】

でイギリス公使パークスとの外交交渉にあたることになりました。

パークスは優秀であり、日本のことをよく知り、非常に興味深い一方で、かなり強引なところもあります。

幕末明治の英国外交官ハリー・パークス 手腕鮮やか薩長を手玉に取る

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「オークマの詭弁は聞きたくない!」

そう強気のパークスに対し、少しもひるまない大隈は

「”万国公法”では、あなたのように内政干渉をすることを禁じています!」

といった調子でやり返します。

まさか日本政府に【内政干渉】という概念を知ってる者がいるとは、思わなかったのでしょう。

さすがのパークスも、これには黙らざるを得ません。

これは、樺太問題と並べると、実に素晴らしい対応です。

パークスは樺太領有についても強引に鑑賞し、ロシアに引き渡すよう割り込み、明治政府はそれに従っております。

樺太の歴史は“無関心の歴史” ゴールデンカムイの舞台に刮目だ

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大隈はパークスに嫌われたかと思ったそうです。

が、実際のところ、彼の方では感じ入ったようで。後にフランスとの交渉を控え、大隈がイギリスに頼るため挨拶へ向かったところ、パークスは非常に丁寧かつ好意的に応対したと言います。

毅然な態度が、実はパークスを感心させていたワケですね。

そんな大隈の元には、気鋭の政治家が集結。

伊藤博文井上馨らが集う大隈の私邸は「築地梁山泊」と呼ばれたほどでした。

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明治以降の日本をどうするか?

彼らはそこで盛んに語り合ったのです。

 

新政府の柱として活動

大隈は、明治政府で着実にその地位を確立してゆきました。

ざっと軌跡を記しておきましょう。

明治元年(1868年)末に外国官副知事

明治2年(1869年) 会計官副知事を兼務し、贋貨問題の処理を担当する。さらには大蔵大輔となり、鉄道・電信の建設、工部省の開局などに尽力

明治3年(1870年) 参議

明治4年(1871年) ウィーン万国博覧会事務局総裁に就任

明治6年(1873年) 大蔵省事務総裁、大蔵卿

明治7年(1874年) 台湾出兵・蕃地事務局長官

征韓論には反対派で、大久保利通につきました。西郷に功績があるとはいえ、明治政府の進化に追いつけなかったと酷評。その死でより政治がやりやすくなったと、率直に述べたほどです

明治10年(1877年) 征討費総理事務局長官

明治11年(1878年) 地租改正事務局総裁を兼任

明治13年(1880年) 参議専任

大隈は、大久保政権において財政問題を担当。

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秩禄処分や地租改正、殖産興業政策等、次々と難しい問題に取り組み、改革を推進しました。

こうした大隈による財政は「大熊財政」と呼ばれております。

近代産業の推進に、大きな役割を果たしたのですね。

岩崎弥太郎の「三菱汽船会社」を助け、三菱との密接な関係の基礎も作っております。

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