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【秋月悌次郎】
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左遷、そして戊辰戦争へ
しかし翌元治元年(1864)。
悌次郎を推挙していた京都詰家老の横山主税常徳が、病で帰郷し、そのまま亡くなってしまいました。
横山は、悌次郎だけでなく広沢富次郎安任といった有能な者たちを、家格を気にせずに抜擢した賢明な人物です。
この横山が亡くなると、藩内では悌次郎に対する風当たりがキツくなっていきます。
会津藩には「紐制・襟制」というものがありました。
身分によって身につける羽織紐や襟の色を分ける制度です。2013年大河ドラマ『八重の桜』でも、紐の色が人物によって分けられていましたね。
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つまり、ぱっと見ただけでこの人物はどの身分かわかるわけです。
身分が色ではっきりと見えるようになると、
「なんだ、あの色の紐のくせに、俺よりもでかい顔をしているじゃないか」
と、階級意識を煽ることにもつながります。
家格以上に活躍する悌次郎も、そんな階級意識を刺激してしまう存在であったのでしょう。
横山の死後、左遷して東蝦夷に送られてしまいます。なんとも惜しいことです。
しかし当時は動乱の時代です。
慶應2年(1866年)、悌次郎は再び京都に呼び戻され、公用方、のちに軍事奉行添役に就任します。
「流石は会津、学問に優れちょる」
されど時既に遅し――会津藩が政治的な巻き返しを成し遂げることは不可能でした。
その翌慶應3年(1867年)、松平容保は京都守護職を解任されるのです。
さらに慶應4年(1868年)には、会津藩が恭順を願い出るものの、これを退けられ、泥沼の戊辰戦争へ引きずり込まれてしまいます。
同年9月22日、会津若松城下、甲賀町にて。
一ヶ月にも及んだ地獄の籠城戦が終わり、会津藩は降伏し開城することになりました。
このとき悌次郎は他の家老たちとともに、容保・喜徳父子の背後で控えていました。
目の前にはかつて会津と同盟を結んでいた薩摩藩士たちがいます。
それが……なぜ……なぜ、こんなことになってしまったのか。
悌次郎は悔しさをこらえ、降伏の式に挑みます(会津藩降伏図)。
容保と重臣たちが降伏嘆願書を手渡すと、軍監の中村半次郎はそれを読み驚きました。
「ほんのこて見事な文章じゃ。流石は会津、学問に優れちょる」
中村は会津藩の学問レベルに感心したのです。
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式が終わると、その間、容保や重臣たちが座していた緋色の毛氈が小さく切り刻まれ、藩士たちに配られました。
「泣血氈(きゅうけつせん)」
そう呼ばれた赤い小さなかけらは、再起を誓う決意を込め大事に保管されたのでした。
北越潜行の詩
開城後、会津藩士たちは猪苗代で謹慎処分を受けました。
悌次郎もその中にいました。
彼はあるとき、そっと謹慎所を抜け出すと、当時会津坂下にいた越後口の西軍参謀・奥平謙輔のもとを訪れます。
奥平は前原一誠の親友で、彼と前原は会津藩士に心を寄せ、寛大な処置を願っていました。
奥平は以前から悌次郎とは旧知の仲で、深い交流がありました。
彼は猪苗代に悌次郎がいることを知って、会津藩士の健闘ぶりを讃える手紙を送っていたのです。
手紙を受け取り、悌次郎は希望の光を見いだしました。
いま、会津は壊滅的な打撃を受けてしまっています。
しかし、これから若者に未来を託すことで、道が開けるかもしれません。
悌次郎は容保・喜徳父子への寛大な処置を願うとともに、優秀な少年を選抜し、奥平に預けることに決めました。
そのうちの一人が山川健次郎です。
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彼は国費留学生に選抜され、イェール大学で物理学の学位を取得、東大総長にまで上り詰めることになります。
もう一人の小川亮は、陸軍大佐にまで出世したものの、夭折してしまいました。
少年たちはまさしく未来への希望でした。
奥崎と出会った帰り道、悌次郎は「北越潜行の詩」を詠みました。
漢文に優れ、生涯漢詩を詠み続けた彼の作品でも、最も有名なものです。
会津藩士の苦悩を詠んだ詩として、高い評価を得ています。
平成25年(2013年)、この詩を刻んだ碑が、会津坂下町束松峠に建てられました。
会津若松城三ノ丸にも、碑があります(参考リンク)。
剛毅朴訥の教育者
猪苗代での謹慎ののち、悌次郎は会津藩の首謀者として終身禁固刑を命じられました。
彼は罪人として監獄を転々とされられます。
そして明治5年(1872年)、特赦となり釈放された悌次郎は、久々に会津の地を踏みました。
その後、新政府の左院少議生に任じられ東京でつとめを果たすものの、三年後に辞職。
明治13年(1880年)からは教育者として、残りの人生を過ごすことになります。
教諭を歴任して後進の育成にあたり、明治23年(1890年)に熊本第五高等中学校の教授となりました。
ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の同僚となったのは、ここでのことです。
穏やかな人柄でありながら、剛毅朴訥の精神を持つ悌次郎は、名物教師として生徒からも教師からも敬愛されました。
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五高の名物行事に、遠足というものがありました。
現在の遠足はバスや電車といった交通機関を使うものですが、当時は文字通り遠くまで足で歩く行事です。
帰路、険しい山道をくだっていると、激しい雨が降り始めました。
すると悌次郎は枯れ草を坂道に撒き始めました。
生徒が一体何をしているのですか、とたずねると
「こうして草を撒いておくと、あとから来る人が滑らなくなるからな」
と答える悌次郎。
生徒たちはその優しい心根に感動を覚えたのでした。
★
明治28年(1895年)、72才の悌次郎は熊本五高を辞し、故郷の会津に戻りました。
それから明治33年(1900年)に77才で没するまで、家塾で若者たちに学問を教え続けます。
幕末という動乱の時代を生きたのち、教育者として生き抜いた悌次郎。
その高潔で朴訥とした生き方は、すがすがしい風のような爽やかさを感じるのです。
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文:小檜山青
【参考文献】
『信念を貫き通した会津藩士秋月悌次郎』(→日新館)