秋月悌次郎

秋月悌次郎/wikipediaより引用

幕末・維新

幕末で日本一の秀才だった秋月悌次郎~会津の頭脳をつないだ老賢者とは

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秋月悌次郎
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左遷、そして戊辰戦争へ

しかし翌元治元年(1864)。

悌次郎を推挙していた京都詰家老の横山主税常徳が、病で帰郷し、そのまま亡くなってしまいました。

横山は、悌次郎だけでなく広沢富次郎安任といった有能な者たちを、家格を気にせずに抜擢した賢明な人物です。

この横山が亡くなると、藩内では悌次郎に対する風当たりがキツくなっていきます。

会津藩には「紐制・襟制」というものがありました。

身分によって身につける羽織紐や襟の色を分ける制度です。2013年大河ドラマ『八重の桜』でも、紐の色が人物によって分けられていましたね。

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つまり、ぱっと見ただけでこの人物はどの身分かわかるわけです。

身分が色ではっきりと見えるようになると、

「なんだ、あの色の紐のくせに、俺よりもでかい顔をしているじゃないか」

と、階級意識を煽ることにもつながります。

家格以上に活躍する悌次郎も、そんな階級意識を刺激してしまう存在であったのでしょう。

横山の死後、左遷して東蝦夷に送られてしまいます。なんとも惜しいことです。

しかし当時は動乱の時代です。

慶應2年(1866年)、悌次郎は再び京都に呼び戻され、公用方、のちに軍事奉行添役に就任します。

 

「流石は会津、学問に優れちょる」

されど時既に遅し――会津藩が政治的な巻き返しを成し遂げることは不可能でした。

その翌慶應3年(1867年)、松平容保は京都守護職を解任されるのです。

さらに慶應4年(1868年)には、会津藩が恭順を願い出るものの、これを退けられ、泥沼の戊辰戦争へ引きずり込まれてしまいます。

同年9月22日、会津若松城下、甲賀町にて。

一ヶ月にも及んだ地獄の籠城戦が終わり、会津藩は降伏し開城することになりました。

ボロボロになった会津若松城・戊辰戦争後に撮影/Wikipediaより引用

このとき悌次郎は他の家老たちとともに、容保・喜徳父子の背後で控えていました。

目の前にはかつて会津と同盟を結んでいた薩摩藩士たちがいます。

それが……なぜ……なぜ、こんなことになってしまったのか。

悌次郎は悔しさをこらえ、降伏の式に挑みます(会津藩降伏図)。

容保と重臣たちが降伏嘆願書を手渡すと、軍監の中村半次郎はそれを読み驚きました。

「ほんのこて見事な文章じゃ。流石は会津、学問に優れちょる」

中村は会津藩の学問レベルに感心したのです。

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式が終わると、その間、容保や重臣たちが座していた緋色の毛氈が小さく切り刻まれ、藩士たちに配られました。

「泣血氈(きゅうけつせん)」

そう呼ばれた赤い小さなかけらは、再起を誓う決意を込め大事に保管されたのでした。

 

北越潜行の詩

開城後、会津藩士たちは猪苗代で謹慎処分を受けました。

悌次郎もその中にいました。

彼はあるとき、そっと謹慎所を抜け出すと、当時会津坂下にいた越後口の西軍参謀・奥平謙輔のもとを訪れます。

奥平は前原一誠の親友で、彼と前原は会津藩士に心を寄せ、寛大な処置を願っていました。

奥平謙輔/wikipediaより引用

奥平は以前から悌次郎とは旧知の仲で、深い交流がありました。

彼は猪苗代に悌次郎がいることを知って、会津藩士の健闘ぶりを讃える手紙を送っていたのです。

手紙を受け取り、悌次郎は希望の光を見いだしました。

いま、会津は壊滅的な打撃を受けてしまっています。

しかし、これから若者に未来を託すことで、道が開けるかもしれません。

悌次郎は容保・喜徳父子への寛大な処置を願うとともに、優秀な少年を選抜し、奥平に預けることに決めました。

そのうちの一人が山川健次郎です。

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彼は国費留学生に選抜され、イェール大学で物理学の学位を取得、東大総長にまで上り詰めることになります。

もう一人の小川亮は、陸軍大佐にまで出世したものの、夭折してしまいました。

少年たちはまさしく未来への希望でした。

奥崎と出会った帰り道、悌次郎は「北越潜行の詩」を詠みました。

漢文に優れ、生涯漢詩を詠み続けた彼の作品でも、最も有名なものです。

会津藩士の苦悩を詠んだ詩として、高い評価を得ています。

平成25年(2013年)、この詩を刻んだ碑が、会津坂下町束松峠に建てられました。

会津若松城三ノ丸にも、碑があります(参考リンク)。

 

剛毅朴訥の教育者

猪苗代での謹慎ののち、悌次郎は会津藩の首謀者として終身禁固刑を命じられました。

彼は罪人として監獄を転々とされられます。

そして明治5年(1872年)、特赦となり釈放された悌次郎は、久々に会津の地を踏みました。

その後、新政府の左院少議生に任じられ東京でつとめを果たすものの、三年後に辞職。

明治13年(1880年)からは教育者として、残りの人生を過ごすことになります。

教諭を歴任して後進の育成にあたり、明治23年(1890年)に熊本第五高等中学校の教授となりました。

ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の同僚となったのは、ここでのことです。

穏やかな人柄でありながら、剛毅朴訥の精神を持つ悌次郎は、名物教師として生徒からも教師からも敬愛されました。

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五高の名物行事に、遠足というものがありました。

現在の遠足はバスや電車といった交通機関を使うものですが、当時は文字通り遠くまで足で歩く行事です。

帰路、険しい山道をくだっていると、激しい雨が降り始めました。

すると悌次郎は枯れ草を坂道に撒き始めました。

生徒が一体何をしているのですか、とたずねると

「こうして草を撒いておくと、あとから来る人が滑らなくなるからな」

と答える悌次郎。

生徒たちはその優しい心根に感動を覚えたのでした。

明治28年(1895年)、72才の悌次郎は熊本五高を辞し、故郷の会津に戻りました。

それから明治33年(1900年)に77才で没するまで、家塾で若者たちに学問を教え続けます。

幕末という動乱の時代を生きたのち、教育者として生き抜いた悌次郎。

その高潔で朴訥とした生き方は、すがすがしい風のような爽やかさを感じるのです。

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文:小檜山青

【参考文献】
『信念を貫き通した会津藩士秋月悌次郎』(→日新館

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