大隈重信

佐賀藩時代の若き頃とアカデミックドレスを着用した大隈重信/wikipediaより引用

幕末・維新

生粋の武士だった大隈重信は右脚失いながら政治と早稲田 85年の生涯

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大隈重信
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新政府の柱として活動

大隈重信は、明治政府で着実にその地位を確立してゆきました。

ざっと軌跡を記しておきましょう。

明治元年(1868年)末に外国官副知事

明治2年(1869年) 会計官副知事を兼務し、贋貨問題の処理を担当する。さらには大蔵大輔となり、鉄道・電信の建設、工部省の開局などに尽力

明治3年(1870年) 参議

明治4年(1871年) ウィーン万国博覧会事務局総裁に就任

明治6年(1873年) 大蔵省事務総裁、大蔵卿

明治7年(1874年) 台湾出兵・蕃地事務局長官

征韓論には反対派で、大久保利通につきました。西郷に功績があるとはいえ、明治政府の進化に追いつけなかったと酷評。その死でより政治がやりやすくなったと、率直に述べたほどです

明治10年(1877年) 征討費総理事務局長官

明治11年(1878年) 地租改正事務局総裁を兼任

明治13年(1880年) 参議専任

大隈は、大久保政権において財政問題を担当。

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秩禄処分や地租改正、殖産興業政策等、次々と難しい問題に取り組み、改革を推進しました。

こうした大隈による財政は「大熊財政」と呼ばれております。

近代産業の推進に、大きな役割を果たしたのですね。

岩崎弥太郎の「三菱汽船会社」を助け、三菱との密接な関係の基礎も作っております。

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薩長閥と対立下野、早稲田を作る

明治政府で輝かしい実績を挙げ、将来も明るいであろう――そう思われた大隈重信の政治家生命は、しかし順風満帆ではありませんでした。

明治14年(1881年)。

「国会開設奏議」を提出し、政党内閣制と国会の即時開設を主張。西洋の政治に詳しい彼ならではの行動でした。

さらには薩摩閥(五代友厚)が絡んでいた「開拓使官有物払下げ事件」に対して猛然と反対します。

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いつしか彼は、薩長閥にとって煙たい男となり、伊藤博文らから財政上の不手際をつかれ、参議を罷免させられます。

大隈派の官吏も、多数が辞職しております(明治十四年の政変)。

政府を追われた大隈は、小野梓・矢野文雄ら辞職官吏とともに、政党組織を推進。

明治15年(1882年)には「立憲改進党」を結成して、総理(党首)となります。※首相のほうの「総理」になるのは1898年です

在野してからの精力的な活動はそれだけにとどまりません。

同年秋には東京専門学校(のちの早稲田大学)を創立しました。

この学校、実は当時「あんなとこに通ったら馬鹿になる」と、言われておりました。

というのも早稲田という地は、大隈の邸宅があったからこそ選ばれたのですが、そこはミョウガの産地。

ミョウガを食べると忘れっぽくなるという言い伝えから、そう考えられたのです。

そうでなくとも当時は不便な場所です。

あんなところに学校を作って何考えてんの?

と揶揄されたそうですが、大隈としては「吉原や浅草のような盛り場近辺に作るよりよっぽどいい」と悠然としておりました。

※まぁ、そうなると、後に日本一の歓楽街・歌舞伎町が大学のスグ近くで発展してしまったのは、歯がゆいところかもしれません

当時の私立学校は政府から「謀反学校」と呼ばれました。

妨害すら受けることもありましたが、大隈は学校経営を諦めません。

早稲田と並ぶ慶応大学の創始者・福沢諭吉とは、明治11年(1878年)頃から付き合いが始まっております。

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もともと大隈は倒幕派で、福沢は幕臣です。

普通に考えれば最悪の組み合わせであり、実際のところ、最初は互いに嫌いあっていましたが、これを面白がったか、あるいは何とかせねばいけないと思った人が引き合わせたところ、なんと打ち解け、気があったとか。

英雄は英雄を知るというところかもしれません。

 

政界復帰、テロで右足切断し辞職

政治活動から離れ、学校経営に乗り出していた大隈重信。

いつしか明治政府は彼の不在を惜しむようになり、明治20年(1887年)、大隈は伯爵に任じられました。

そして翌明治21年(1888年)には、伊藤内閣の外務大臣に就任、続いて黒田清隆内閣でも条約改正交渉に当たります。

ところが、ここで思わぬアクシデントに見舞われます。

外人裁判官任用問題(大審院に外国人裁判官を置くこと)で、反対派から「国辱的だ!」と激しく非難されてしまうのです。

このとき最も強く反対したのは小村寿太郎たちでした。

大隈からすれば、日本の法整備の遅れ等を考慮した案に過ぎないのですが、反対意見はキョーレツ。

実力者・伊藤博文も、反対に回ってしまいます。

そして、明治22年(1889年)。

大隈は、政策に不満を持つ玄洋社員・来島恒喜に命を狙われ、ついには爆弾を投ぜられてしまいました。

明治時代は、不満を感じた政治家を殺す凶悪事件が多発しておりました。一命をとりとめた大隈は、右脚を切断し、外務大臣を辞職となります。

その後は枢密顧問官となりますが、明治24年(1891年)に自由党総理・板垣退助と提携したため、免官されてしまいます。

ここからはかなり細かい政治家活動で、日本史受験生を泣かせるところでもありますね。

本稿ではサクッ!と流させていただきます。

・明治29年(1896年)

改進党を中心に小政党を合併、進歩党結成、党首に就任。

薩摩閥と手を組み、第2次松方内閣の外務大臣に任命されます。

この内閣は、別名「松隈内閣」とも。それだけ、大隈が重視されたのでしょう。

・翌明治30年(1897年)

農商務大臣を兼任したものの、薩摩閥と合わず、結局辞職することに。

なんだか何度も同じようなことを繰り返すのが、薩長相手でも決して引かない姿勢というイメージでカッコ良いですよね。

・明治31年(1898年)

板垣退助とともに手を組み、自由・進歩両党を合同させた憲政党を組織。

薩長以外では初の総理大臣に任命される。

ついに来ました1898年の総理大臣就任。

大隈は、薩長土肥から追い出されたような、土佐閥と肥前閥で手を組み、薩長閥にガツンと言わせるような政治家活動を展開するのです。

これは日本初の政党内閣「隈板内閣」とも呼ばれました。

しかし、元を辿れば大隈と板垣も、かつては互いに宿敵としていた相手です。

たった4ヵ月で憲政党(自由党派)と憲政本党(改進党派)の二派に分裂して、隈板内閣も総辞職に追い込まれます。

大隈は憲政本党総理として政党を率いるものの、明治40年(1907年)、高齢であるとして政界を引退したのでした。

 

政界と教育界の不死鳥の如し

政界を引退した大隈重信は、早稲田大学の総長となりました。

ちなみに校名は、明治35年(1902年)の創立20周年を機に、東京専門学校から早稲田大学へと改名しております。

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教育者としての大隈は、清からの留学生に敬意を表し、女子教育にも興味関心を抱いておりました。

女子教育がテーマの一つであった『あさが来た』に大隈が出演したことも、納得ですね。

また明治43年(1910年)には、南極探検を志願する白瀬矗(しらせ のぶ)を助けたこともあります。

「大和雪原」の陰に、大隈ありなのです。

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他にも、現代で言うところの文化人活動に精を出しております。

「文明協会」を設立し、『新日本』『大観』等の雑誌発行に関与。著作も多数あり、各地で後援会や演説会のために引っ張りだこでした。

ざっと著作を挙げてみますと……。

『開国五十年史』
『開国大勢史』
『大勢を達観せよ』
『国民読本』
『東西文明の調和』
『大隈伯昔日譚』

こんな感じで、明治政府の中枢にいた人物としても屈指の存在だった知能が、存分に発揮されたわけです。

豪放磊落な大隈は、「早稲田の大風呂敷」という悪口もありましたが、基本的には「民衆政治家」と呼ばれ慕われておりました。

何度も引退復帰を繰り返しており、年号が大正(1912年)になって「第一次護憲運動」が起こるや、政界に復帰。

立憲同志会の援助を受け、大正3年(1914年)には「第二次大隈内閣」を組織し、内務大臣を兼任します。

凄まじいばかりのエネルギーですよね。

忘れてならないのは、彼が幕末のど真ん中を生き抜いてきた元武士であることかもしれません。

大隈が二度目の総理になったのは、第一次世界大戦の時代。

大正3年(1914年)に「対華二十一箇条要求」を提出し、陸海軍備拡大を行います。

同年の内閣改造では、外務大臣を兼任することにもしました。

さらに侯爵に叙せられたものの、秋には総辞職。

結局、このときも薩長の陰がつきまとい、今度こそ本当に政界から離れることになりました。

その後、早稲田大学から多くの政治家・総理大臣が輩出されたのも、大隈の不屈の精神が影響していたんですね。

大正11年(1922年)、1月10日。

胆石症のため、早稲田の自宅で死去。享年85。

肥前が生んだ政治と教育の巨人。

それが大隈重信でした。

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文:小檜山青

【参考文献】
榛葉英治『大隈重信 (歴史人物シリーズ―幕末・維新の群像)』(→amazon
国史大辞典
ほか

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