幕末・維新

危うく米英に奪われそうだった幕末の領土問題~小笠原諸島は誰のもの?

文久元年(1862年)12月19日、江戸幕府が小笠原諸島の領有を宣言しました。

小笠原諸島とは、父島、母島、硫黄島など30数島からなる東京都小笠原村の行政区分で、自然豊かな南国風景の島として知られます。

しかし、江戸時代においては1675年以来、国としての対応はしておりませんでした。

要は放置されていたわけです。

幕末期においても同じで、幕府の支配力は及んでおらず、下手をすれば英米にとられそうになっておりました。

そこで、この1862年に外国奉行の水野忠徳らを咸臨丸で派遣し、領土宣言をしたのです。

現在とちょっと違うのは、すでに英国と米国が人を送り込んでおり、幕府は後手に回っていたのに、意外とすんなり主権が得られたことでしょう。

もちろん距離的には日本が一番近いので当たり前っちゃ当たり前なんですけど、帝国主義・植民地バンザイな当時の常識からすればそんなもん言い訳になりません。

しかも幕末の混乱期。

どうやって手の内に納めたのか?

 


無人だから「BONIN アイランド」

今は小笠原諸島のうち、父島・母島・硫黄島・南鳥島に人が住んでいます。

※硫黄島と南鳥島は自衛隊関連など公務員のみ

ですが、発見当初は幕府の役人どころか原住民すらいない完全な無人島でした。

英語で小笠原群島(小笠原諸島より狭い範囲の呼び方)を「Bonin Islands=ボニン・アイランズ」というのですが、この「ボニン」は「無人」から派生したものなのだそうです。

先史時代(だいたい弥生時代以前)の遺跡や石器らしきものは見つかっていて、おそらくその血筋は絶えてしまったのでしょう。

16世紀に一度スペイン人が母島の存在を確認し、江戸時代には度々役人の船が漂着したりして少しずつ小笠原諸島の存在が知られるようになっていきます。

しかし、遠すぎるからか無人島だったからか。

江戸幕府は積極的に統治しようとはしていませんでした。

一応「ここは日本国内だよ!」という碑を建てて自己主張はしたそうですが。

ちなみに、当時、この海域で遭難したジョン万次郎は、小笠原諸島から北(つまり本州寄り)の鳥島に漂着しています。

海上の地図だといまいち距離感がつかみにくいですね……。

とにかく江戸時代であれば、日本列島から凄まじい距離のところにありました。

※以下はジョン万次郎の生涯まとめ記事となります

ジョン万次郎
頭脳明晰ジョン万次郎 14才で無人島に漂流 アメリカで学を修めて帰国

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※ジョン万次郎は絶望的な孤島の「鳥島」でアホウドリを食しながら生き延びたと伝わります

 


あのペリーも立ち寄っていた

その後、欧米諸国が極東地域に進出するにつれ、あっちこっちの国が「こんなとこに島があったよ」と学術誌に発表したり、「ちょっと寄ってみっか」と寄港するようになります。

例えば文政六年(1823年)には、米国の捕鯨船が母島に上陸してコッフィン諸島と命名。

船長の名前からそう付けられました。

確かに江戸時代は、はてしなく遠い距離ですが、現在、ここが米領だったとしたら恐ろしいことですよね。

と、思ったら、当時すっかり世界の海賊になっていたイギリスも「ここウチのシマだから!」と名乗り出ます。

文政十年(1827年)にブロッサム号が父島へ入り、ビーチー艦長が国旗などを残していったのです。

これに黙っていなかったのが、あのペリーでした。

嘉永六年(1853年)に父島へ寄ると、すでにハワイから移住していた父島住人のセボリーを現地の責任者に任命し、英国の領土主張を否定したのです。

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要は、日本は無視して、英米の主張がごちゃごちゃしていたんですね。

では、当の江戸幕府は何をしていたのか?

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