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【小笠原諸島の領有】
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開国直後で欧米列強も大目に見た?
開国要求の対応でそれどころではなかったのか。
それとも関心が薄かったのか。
小笠原諸島の領有に関し、江戸幕府が即座に対応することはありませんでした。
1862年(文久元年)になってようやく外国奉行の水野忠徳を派遣し、測量を行った後に領有を宣言しています。
それが同年の12月19日ですね。
幕府は、島に住んでいた人々を服属させ、各国の公使にもその旨を伝えます。
「これからは日本のものです!」と言い切りました。
明治13年(1880年)正式に東京府の管轄へ
となると即座に国際問題に発展しそうなものですが、このとき既に下田・函館の開港が決まっていたためか、イギリスもアメリカも小笠原諸島には大して執着しなかったようです。
幕府が「もう住んでる人はそのまま住んでていいし、これからも出て行けとか言わないんで」という方針にしたのが良かったのかもしれません。
もしも「今から日本なんで、ハワイへお帰りください」とでも言ってたら、マズかったかも……。
明治新政府ができてからも、さほどに緊急事態ではなかったのか。
小笠原諸島に関しては、徐々に対応していっています。
明治初年(1867年)から官民で開拓を始め、明治6年(1873年)に英国公使ハリー・パークスらと話し合い。
その3年後にあらためて各国へ正式通告すると、いずれも異議はなく認められ、明治13年(1880年)、正式に東京府の管轄になっています。
かくして小笠原諸島は名実ともに日本の一部になり、今でもハワイ人をご先祖とする人が都民として仲良く住んでいるようです。
領土問題というと、殺伐とした感情にさせられますが、当時は、ノンビリしていたものですね。
現代の問題も早く解決してくれることを切に願うばかりです。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典