江戸の城下を戦禍から守ったとされる「無血開城」。
文字通り、血を流すことなく(=徳川幕府と官軍が戦争することなく)江戸城を明け渡した――というものですが、このとき薩摩・西郷隆盛の英断に一人の女流歌人が影響を与えたという話があります。
明治8年(1875年)12月10日に亡くなられた大田垣蓮月(おおたがき れんげつ)です。
彼女の歌がどこまで西郷に影響を与えたのか。その真相は不明ながら、歌が届けられたというのは事実。
一体いかなる歌で、蓮月とはどんな女性だったのか?
彼女の生涯をたどってみたいと思います。
※以下は江戸城無血開城の考察記事となります
実際は流れた血も多かった江戸城無血開城~助けられた慶喜だけはその後ぬくぬくと?
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出家後は自ら歯を抜き美貌を貶めた!?
後に大田垣蓮月となる女児は寛政3年(1791年)1月8日、まだ幕末動乱の薫りはしない平和な京都で生まれました。
もとの名を誠(のぶ)と言う幼子の彼女は、生後十日ほどで大田垣光古(てるひさ)の養女となります。養母は早くに亡くなりました。
娘時代の誠は、活発で武芸もたしなむ、ちょっと変わったおてんば娘だったようです。
しかし、結婚してからの誠は運に恵まれない……どころか、ほとんど呪われてると言っていいほど過酷な運命が待ち受けておりました。
最初の結婚。
父・光古が、養子として望古(もちふさ)を迎え、誠の婿としました。
彼らの間に生まれた三人の子は夭折。望古も離別後、ほどなくして亡くなってしまいます。
二度目の夫として、今度は古肥(ふるひさ)が養子に迎えられました。が、彼も、その間に生まれた子供も、立て続けに亡くなってしまうのです。
何か呪われているんではないか……。
当時であれば、本気で疑ってしまうような、恐ろしいまでの不幸の連続です。
結果、この父娘は剃髪して出家し、父は西心、娘は蓮月と号するようになります。
その後ほどなくして養父である西心も亡くなり、蓮月が一人きりになってしまったとき、彼女は42才になっていました。
もともと蓮月は、その美貌さを知られておりました。年を重ねても一向に衰えぬ蓮月の美しさに、下心を持って近づく男もいたそうです。
そこで彼女はわざと歯を抜いて自らの美貌を台無しにして、誘惑から身を守り抜いたという逸話があります。
この話はおそらく作り話とされていますが、それぐらいのことはやりかねないほど気丈だったとか。
人付き合いを避け転々とし、引越し魔と呼ばれる
大田垣蓮月は、岡崎村(現・京都市内)に移り住むと、生活のために陶器を作り始めました。
土をこね、ろくろを回し、出来上がったのは素朴な味わいのある器。
といっても、素朴というのは婉曲的な言い回しでして。彼女が最初に手がけたのは「きびしょ」、現代で言う「急須」でした。
当初の作品は酷いものでした。子供の作品のように、ぐにゃぐにゃとしてうまく作れません。
それでも蓮月はあきらめず、作り続けました。
蓮月の作品は、洗練されているわけではありませんが、表面に自作の歌を釘で描いて焼くと、独特の味わいが出ました。
これが評判を呼んで彼女の名は世に知られるようになり、土産物として人気が出ました。
「蓮月焼」と呼ばれ、生活には困らなくなりました。
しかし人気が出るのも考えものです。
この器の作者は誰だろう?と人々が好奇心を抱き、彼女の家をたずねてきます。と、彼女は嫌気がさして、さっさと引っ越してしまうのです。
あまりに引越しが多いため、次第に「屋越し蓮月(引っ越し魔蓮月)」と呼ばれるようになるほど。
理由として「勤王活動のために身の危険を察したから」と言われることもありますが、単純に人付き合いに疲れたのが原因のようです。
そうは言っても、彼女が完全に孤独を目指したというワケではありません。
むしろありとあらゆる階層出身の文化人と交流があり、その中には勤王家もいれば【安政の大獄】に連座した者も含まれていたのです。
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そのため心ならずも「勤王歌人」と呼ばれたことがあったようです。しかし……。
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