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【河井継之助】
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金持ちケンカせずを貫けないサムライスピリッツ
この背水の陣ともいえる姿勢で新政府軍と交渉に臨みました。
が、話し合いでは意見を聞き入れてもらえず、いよいよ幕府側として戦闘に参加せざるをえなくなってしまいます。
長岡藩は東北の諸大名が組んでいた奥羽列藩同盟として新政府軍と戦うことになるのですが……。ここでもギリギリまで武装中立を貫こうとします。
奥羽越列藩同盟は何のために結成? 伊達家を中心とした東北31藩は戊辰戦争に敗れ
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すでに領内では同盟の会津軍が新政府軍と激戦をしています。
その中で、河井継之助は苦しい判断を部下に下します。
「朝廷の命令は聞け。ただし徳川への恩を忘れるな」
もう戦闘が始まっているのに、これまたちょっとKY的な……。現実主義者としての一面と、恩顧を尽くす面とで、必死に悩み抜いたことが伝わってきます。
そして5月1日、新政府軍のもとへ行き、相手の軍監・岩村高俊に
「というわけで、今までのうちの藩は挙動不審ですみませんでした。でも、主人は恭順のほか何も考えていません。ただ藩内の議論をその方向でまとめたいのでしばらく時間の猶予をお願いしたい」
と直接伝えました。
しかし、岩村は怒ります。
「なにを今更! いまドンパチやっているの見えんのか! 猶予とかいって戦闘準備をしようというんだろ!」
この時点で長岡藩1,800 vs 新政府4,000だったので、5月19日に長岡城は炎上、奪われてしまいました。
それでも継之助は諦めません。1万6,000両の大金で、外国の「死の商人」スネルから銃器弾薬を買い入れます。
新政府軍も補給線が伸びて弾薬不足だったのです。
左足に銃弾を受け、治療もむなしく……
7月24日、まるで小説かゲームのような展開で、大雨と闇夜の隙をついて城を奪い返します。
ところが、このときに河井継之助は左足に銃弾を受けてしまいます。
相当な重傷で、指揮をとることもままならなくなりました。
その後、29日に、再度城は奪われ、物資も兵も損失していた長岡藩士達は退却せざるを得ませんでした。
継之助は板の乗せられ、会津藩を目指して密かに山道を落ち延びます。そして……。
途中の会津領の塩沢村(福島県)というところで息を引き取りました。
先に会津へ落ち延びていた藩主が派遣した幕府のお医者さんの治療も受けたのですが、当時の技術では、銃創に対する適切な処置ができなかったのでしょう。
直接的な死因は、破傷風だったと言われています。
享年42。
熱い思いは修造に受け継がれアサヒビール等で
河井継之助は塩沢村の前に立ち寄った村でも、既に死期が迫っていることを悟っていたらしき言動をしています。
「藩主の跡継ぎを亡命させてくれ」
「今後は庄内藩を頼れ」
などなど、気にかかることは全て言い残しておこうとしたかのような発言の記録が残っています。
目をかけていた外山脩造(とやましゅうぞう)には、
「今後は身分制度がなくなるだろうから、商人になって財力を蓄えるように」
と、先見の明を示しています。
実際、外山はこの言いつけを守り、明治になってからアサヒビールなど数々の会社の創業に関わりました。
敗走中の継之助は自嘲を込めて、こんな句を読んでいます。
「八十里 こし抜け武士の 越す峠」
書いたそのまま、自分の情けなさを謳ったのでしょう(腰と越=越後をかけている)。
しかし、彼は腰抜けどころか後々のことまで細やかに考えていた、幕末史上まれにみる立派なサムライでした。
冒頭の西郷隆盛と比較した言葉は、時間の猶予をくれと頼んだ軍監の岩村高俊の発言なのですが、継之助と西郷隆盛は同い年なのです。
継之助がめちゃくちゃ若く見えたのか。
それとも西郷隆盛があまりにおっさんに見えたのか。なんとも謎であります。
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長月 七紀・記
【参考】
歴史群像編集部『全国版 幕末維新人物事典』(→amazon)
安岡昭男『幕末維新大人名事典(新人物往来社)』(→amazon)
河井継之助/wikipedia