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【大山捨松】
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一度は捨てたが帰りを待つ
明治政府の思惑はともかく、こうして捨松は長い船旅を経てアメリカに渡りました。
「捨松」という一見ヒドイ字面の名前になったのはこの頃です。
無事帰ってこられるかわからない留学に際し、母親が
「お前のことは一度捨てたものと思いますが、帰りを待つ(松)ことには変わりありませんからね」
という意味をこめて名付け直したのだとか。
ということは帰国後改名しても良かったはずですが、そこは親からもらったものだからってことですかね。
日本には昔から魔除けの意味でわざと子供に汚い・縁起の悪い字をつけるという風習がありましたので、その一環かもしれません。
だいぶ時代が離れますが、紀貫之の初名なんて阿古久曽(あこくそ)という現代だったら確実にイジメの元になる読み方ですし。
アメリカでは、牧師のベーコン家で生活することになりました。
神の教えに感銘を受けたのかそれとも形式的なものだったのか、留学中に洗礼も受けていたようです。
ここの末娘アリスとは生涯を通じての友となり、勉強はもちろん交友関係も順調でした。
まだ20過ぎたばかりなのにもう縁談は来ない
大学を卒業した留学10年目。
捨松は、帰国命令が出たにもかかわらず、延長を申請し、看護婦学校を卒業したり看護婦の免許を取るなど、留学生の鑑ともいえるほどの意欲を示しています。
会津若松城での経験や、アメリカ赤十字社(捨松の留学中に設立)への関心があってのことでしょう。
もともと山川家が勉学に熱心な家だったことも強く影響していると思われます。
例えば兄の山川健次郎も米国の名門イェール大に留学し、帰国後は東京大学や九州大学の総長を務めております(会津などの敗軍サイドは政界等での出世が難しかったという事情も)。
かくして捨松は無事に帰国。
されど、当時の日本では彼女が学んだことや看護婦の資格を生かせる場がまだ存在しませんでした。
10年にも渡る留学で日本語がかなり危うくなっていたことに加え、まだまだ「女は奥にいるもの」とされていた社会です。
「アメリカ娘」と謗られ、これでは何のために留学して頑張ってきたのかわかりません。
さらに23歳になっていたため「行かず後家」扱いされ、親友アリスに
【まだ20過ぎたばかりなのに、母はもう縁談が来ないなんて言ってるのよ】
と手紙を書いています。
いつの時代も母親の言うことって変わらないというか……。
しかし、彼女の本当の激動は、ここから始まるのでした。
帰国後、まさかの薩摩の嫁に!
ちょうどそのころ薩摩の大山巌は、最初の妻・沢子を亡くして困っているところでした。
家庭のことを任せられる女性が必要というのもありますが、当時、政府は西洋風の社交界を作ろうとしているところだったため、パーティーに連れて行ける奥さんが必要不可欠だったのです。
これについては沢子の父(巌にとっては舅)吉井友実もいたく心配していて、方々で候補者を探していました。
しかし、巌は当時、軍での責任も重くなり始めていて、ドイツ語やフランス語で交渉に当たることもあったため、同等の語学ができる女性が必要。
当然ながら、そんな人、国内に何人もいません。
こうして捨松に白羽の矢が立ちます。
山川家では一瞬喜んだものの、かつての敵が相手と聞くや態度が激変。
「敵のところへ嫁に行くなんてとんでもない!!」と大反対を食らいます。
特に山川浩は、会津若松城への砲撃で妻を亡くしていましたので、許せないのは無理もありませんでした。
しかし、それでも大山巌は諦めません。
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