大正八年(1919年)2月18日、大山捨松が亡くなりました。
陸軍大将だった大山巌の二人目の奥さんです。
実は18歳も年齢差のある夫婦ですが、結婚するまでの経緯はまさに運命としかいいようのないものでした。
お好きな項目に飛べる目次
会津藩 家老の家に生まれたお嬢様
捨松は初名を山川さきといい、会津藩の家老の家に生まれました。
安政七年(1860年)生まれですから、既に幕末もいいところ。いつ幕府が瓦解してもおかしくないような動乱の時代ですね。
戊辰戦争で新政府軍が会津若松城に攻めてきたときには、家族と共に城へ入り、負傷者の手当てや炊き出しなどをしていたといいます。
実はこのとき、攻め手の砲兵隊長が大山巌(当時は弥助)だったことで後々大問題になります。
※以下は会津戦争の関連記事となります
なぜ会津は長州を憎んだのか~会津戦争に敗れた若松城と藩士達が見た地獄とは?
続きを見る
会津戦争の遺恨『遺体埋葬論争』に終止符を~亡骸埋葬は本当に禁じられたのか
続きを見る
そして戦争が終わり明治に入った後、旧会津藩の人々は苦難の生活を送りました。
改易の上、極寒の地である斗南藩(青森県の最北短あたり)へ移ることになったのです。
ホントは「旧領の一部・猪苗代かどっちか選んでいいよ」ということになっていたのですが、諸般の事情により斗南になりました。
斗南のほうが土地が広く農業がしやすいと考えたとか、寒さについては「そんなの慣れてるから大丈夫ですよ」と思っていたとか、いろいろ言われています。
函館のフランス人宅へ里子に出され
案の定、斗南に移った旧会津藩士たちは予想以上の厳しい気候により死者が多発。
耐えかねて逃亡する者も出始め、ますます耕作は進まなくなってしまいました。
斗南藩の生き地獄~元会津藩士が追いやられた御家復興という名の“流刑”とは
続きを見る
山川家も苦しい生活を余儀なくされました。
が、家長の山川浩(ひろし・捨松の長兄)たちが開墾や教育に力を注いだおかげで少しずつマシになっていきます。
敵に囲まれた城を獅子舞で突破!会津藩士・山川浩の戦術が無双だ!
続きを見る
この状況ではどこの家でも一家全員同じ屋根の下で暮らすことは困難です。
そのため、一人でも多く生きられるようにということで、年少者はあちこちへ里子に出されていきました。
捨松もその一人で、彼女は函館の沢辺琢磨という(当時珍しかった)キリスト教司祭の元へ行き、その縁からか同じく函館で暮らしていたフランス人の家に預けられることになります。
留学期間10年 希望者は敗軍の家ばかり
同時期の明治政府では、岩倉使節団の計画が進んでいました。
このとき随行する留学生には「賊軍」と呼ばれ世間から冷たい目で見られていた者も参加が認められており、捨松のもう一人の兄・山川健次郎も加わっています。
女子の応募も認められていました。
しかし「政府がお金出すけど留学期間は10年ね!」という条件だったため、希望者ゼロというまさかの事態が起きます。
現代でこそ留学する人はそう多くはないですが、さすがに10年ともなると本人より親が反対したであろうことは想像に難くありません。
しかし、捨松はフランス人の家で暮らしていたことから西洋文化に親しんでおり、山川家でも「いざとなったら健次郎が何とかしてやれ」という結論になったため、応募に踏み切りました。
最終的に女子留学生は5人。
その全員が佐幕派もしくは賊軍とされた家の娘だったというから、まぁ、なんちゅうか、明らかですわな。
新政府が本当に女子教育を重んじるのであれば、薩長の家から率先して出されてもおかしくないのに、この現状ですから。
戊辰戦争が終わって2年。
『賊軍のやつらなんて、どうなってもエエ』とか思ってたなんてことは……否定できませんよね。
※続きは【次のページへ】をclick!