慶応三年(1867年)3月26日、江戸幕府の軍艦・開陽丸が横浜港に到着しました。
オランダで建造されたので、地球をほぼ半周してやってきたのです。
黒船来航によって「造船技術を勉強しないとやばくね?」と考えた幕府が、オランダへ留学生と船大工を派遣して作らせた船でした。
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建造を押し進めたのは?
これを推し進めたのは老中の安藤信正です。
あまり知られていないようですが、彼は先見の明を持っていた幕閣。
当初は黒船を見せ付けてきたアメリカに依頼しようとしました。
しかし「ウチは今(南北)戦争中だからダメデース。そんなことやってるヒマは無いデース」と断られてしまったため、付き合いの長いオランダを頼ることになったのです。
※以下は安藤信正の関連記事となります
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「開陽丸」といういかにも縁起の良さそうな名前は、建造中につけられています。
幕末の動乱の中、明日をも知れない幕府と日本に少しでも瑞兆の感じられる言葉を、ということで選ばれたそうです。
開陽=日が開ける=日が昇る→夜明け前→オランダ語に訳すと"Voor lihter"(フォール・リヒター)になるため、現地の人々からはそう呼ばれていたとか。
船の「◯◯丸」という名前に特別な基準ナシ
日本の船に「ナントカ丸」という名前が多いのは、特に厳密な基準があるというわけでもないそうで。
明治以降は法律で「(統一したほうがカッコいいし)なるべくナントカ丸にしてね」と決められていたのですが、2001年にこの項目が削除されたため、今は慣例になっています。
欧米圏では船や海を女性として扱うことが多いので、男性名にあたる「ナントカ丸」は結構奇妙に見えるかもしれませんね。
旧軍では旧国名・藩の名前や伝説上の動物、名所の名前をそのままつけたものが多くなっていますが、規則性についてはウィキペディア先生のまとめがわかりやすいのでそちらをどうぞ。
地名が多いのは、当初外国に倣って人名をつけようとしていたのを、明治天皇が反対して取りやめになったかららしいです。
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確かに、故人であっても人の名前を付けた船が沈んだらいい気分はしないですからねえ。
欧米圏だと同じ名前の人が何人もいるのであまりそう感じないかもしれませんが、日本人の名前がそっくり被ることってあんまりないですし。
閑話休題。
話を幕末へ戻します。
ウチの海軍でもこんな完璧な船ないっす!by蘭
建造&武装を無事終えた開陽丸は、検査も無事に終えて「ウチ(オランダ)の海軍でもこんな完璧な船持ってないっスよ! いい仕事したわー」というオランダ側の自画自賛を受けて帰国します。
出迎えたのは、軍艦奉行に就いていた勝海舟たちでした。
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安藤信正は坂下門外の変(文久二年=1862年)で失脚&蟄居処分になっていたので、自ら計画を推し進めた最新鋭の軍艦を見ることはおそらくなかったと思われます。切ない……。
そして船に見劣りしない海軍を作ろうということで、海舟らも頑張ったのですがその前にタイムリミットが来てしまいました。
言わずもがな、慶応三年といえば大政奉還です。
勝としては自分で「徳川より日本のためを思って行動していた」と言っているのでどうでもよかったでしょうけども、他の佐幕派にとっては一大事。
これに伴う討幕派との小競り合いで肩慣らしをし、いざこれからというところだったのです。
しかし、鳥羽・伏見の戦いで幕府側が負けてしまったため、
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開陽丸はその優秀な性能を知られる前に「徳川慶喜が江戸へ逃げ帰るときに使った船」という不名誉な印象を持たれることになってしまいました。
そして……。
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