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【伊集院須賀】
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夫の西郷は斉彬と共に江戸へ
安政元年(1854年)になると、夫の西郷が島津斉彬に従い、江戸に向かうことになります。
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さすがに伊集院家としても、いつ戻るかわからない夫を待ち続ける娘を気の毒に思ったのでしょう。これは、西郷家でも同じ考えでして。
幸か不幸か、二人の間には子供も産まれてはおりません。両家で話し合い、西郷と須賀は円満に離縁することになるのです。
実際、このあとの伊集院家と西郷家の関係が悪化した様子はありません。
留守が長すぎて須賀が気の毒だから、というのは西郷なりの想いやりだったのですね。ただ、西郷も須賀のことを終生気にしてはいたようですから、何か彼なりに思うところや離婚の原因があったのかもしれません。
ちなみに須賀の弟・伊集院兼寛は、薩摩藩士として幕末維新の政局において活躍します。
維新後は西南戦争に巻き込まれることもなく、順調に子爵にまで出世するのでした。
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幕末の結婚事情について
武家は家同士の結びつきです。ですから、メリットがないとなると結構あっさり離婚しました。
幕末は、国元に妻を残して、京都や江戸に滞在する武士が多くおりました。
そうした滞在先で、多くのロマンスが生まれたことは有名です。
西郷にも京都では親しくなった女性がおりました。
彼女はそのたくましい体格から「豚姫」と呼ばれていて、ドラマでは、お笑いコンビ・ハリセンボンの近藤春菜さんが演じられてましたね(ドラマの西郷とは特別な関係ではありませんでしたが、好意を寄せている描き方がされておられました)。
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もちろん、そうした華やかなロマンスの陰には、夫の留守を守り、寂しく暮らす妻の姿があったことは確かです。
現代人からすれば、出張先で彼女を平然と作るような幕末武士の行動は、ちょっと不愉快に思えるかもしれません。
西郷「第四の妻」伝説
・伊集院須賀
・愛加那(とぅま)
・岩山糸
上記のように三人の妻がいたとされる西郷には、実は「第四の妻もいた」という説があります。
その説によれば――。
嘉永3年(1851年)、西郷は島津斉彬の密命を帯びて台湾に密かに渡りました。
このとき平埔族で17才の少女「蘿茱」と恋に落ち、子まで産まれたというのです。
ただし、2人の子孫は現在は途絶えたとされておりまして。真偽は不明ですが、このような伝説が残るというのはなかなか興味深いところではあります。
西郷の人生を彩った女性の中では、いささか影が薄い印象を受ける須賀。幕末という動乱の時代、妻には辛い忍従の日々がありました。
彼女もまた、そうした典型的な女性だったのかもしれません。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
国史大辞典
ほか