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江戸での滞在を含めると8~10ヶ月も要した!?
彼ら一行は、使者である正使・副使の他に医師・通訳・楽隊・料理人・画家などから構成され、500人にのぼったといわれています。
ここに、日本からは対馬藩の案内・警護として1500人ほどが加わるため、大名行列とさほど変わりない規模になったのです。
国内で比較してみますと、外様大名のナンバー2・薩摩藩の参勤交代時と同じくらいというドデカな規模。
もちろん、時間もかかります。
八代吉宗の代(享保四年=1719年)に来日した通信使は、ざっと以下のような期間を要しております。
◆対馬~大坂の海路移動に45日
◆大坂滞在6日
◆大坂~江戸の陸路移動に18日
国内に入ってから江戸に行くだけで69日=2ヶ月以上ですね。
さらには江戸での滞在を含めると8~10ヶ月もの時間を要していたそうです。
朝鮮までの往復が含まれているかどうかまではわからなかったのですが、船の日和待ちによっては1年もザラだったでしょう。
対馬や大坂でのおもてなしも提案してみたが……
この間の饗応については、対馬藩の他に外様大名や、進路上の農民などが充てられました。
なんせ2,000人の大所帯ですから、宿所を用意するだけでも大変です。
幕末の西洋人同様、お寺が割り当てられることもありました。
しかし、朝鮮では家畜の肉食が行われていたため、宿所がお寺だと直接家畜を正門から入れることができず、別の門を作ったりなど、別の手間もかかりました。
また、19世紀に入ってからは、朝鮮側では「凶作でお金がないから、日本まで行くの無理じゃね」と言われており、日本も日本で、黒船来航などによるてんやわんや&財政難のために、従来のような接遇ができなくなっています。
そこで幕府が「そっちも江戸までくるの大変だし、対馬とか大坂でおもてなししたいんだけどどう?」と持ちかけたことがあったのですが、これは幕府内部からも朝鮮側からも反対され、実現には至りませんでした。
この案には「西国大名に饗応させて経済的疲弊を狙いつつ、幕府の経費を削減しよう」という狙いも隠れています。
もし実現していたら、戊辰戦争での討幕側の軍費はだいぶ減っていたかもしれませんね。
何がどう関係してくるかわからないところが、歴史の醍醐味です。
とまぁ、付き合いが長い同士とはいえ、やはり文化が違いますから、通信使と日本側では度々トラブルが起きました。
宝暦十四年(1764年)には、通信使の一員に侮辱されてブチ切れた対馬藩士が、通信使の一人をブッコロしてしまったことがあります。
通信使一行の中には素行の悪い者もいて、接待役の対馬藩士を困らせることもあったので、腹に据えかねたのでしょう。
殺すのはやりすぎですが、まあ日本人同士でも(現代からすると)「えっ?」という理由で刃傷沙汰が起きていた時代の話ですから……。
八代・吉宗の代には、朝鮮人参の国産化も
文化や習慣に関する摩擦もありました。
特に、儒教への認識の差は大きなものだったようです。
日本でも朝鮮でも、基本的には朱子学が尊ばれていましたが、朝鮮では「中国から伝わったそのままの教えを守る」のが主流。
一方、日本では「朱子学のここはどういう意味なのか」といった研究を重んじる傾向がありました。
そのため日本で研究された説は好まれず、一方、日本の学者が「朝鮮の学者が来たから楽しみにしていたのに、ろくに議論できない(´・ω・`)」と残念に思うことも珍しくなかったようです。
たまに、朝鮮では珍しい、日本の研究者のようなタイプの学者が同行してきたときは、日本の儒学者を評価してくれることもありました。
医学については、通信使に同行していた医師や鍼灸師と日本の医師の間で、積極的な情報交換や問答が行われていたようです。
八代・吉宗の代には、朝鮮人参の国産化に関する情報ももたらされたとか。
これが国産できたことによって、朝鮮人参の貿易によって利益を得ていた対馬藩はかなりの打撃を受けたそうですが、まあ仕方ない。
また、通信使の宿を訪ねて、漢詩などの大陸の文学について学ぶ文人もいたといいます。
朝鮮通信使から評価されたものもありました。
ひとつは食に関するものです。
一定の時期から、日本側でも朝鮮料理を出せるようになりましたが、日本独自のものでは、魚の粕漬けや鰹節、和菓子が好評だったそうです。今の韓国の方はどうなんですかね。
もうひとつは、日本の名所の風景です。
当時は写真がないので、カメラマン代わりに画家が通信使に同行していました。
彼らが日本の風景を描いたり、通信使が鞆の浦(とものうら)の眺めを絶賛したりした、ということが伝わっています。
また、日本の画家が朝鮮通信使の行列を絵に残しています。教科書や資料集などにもよく掲載されていますね(TOP画像)。
朝鮮通信使との間には細かな摩擦やトラブルもありましたが、ほとんどは大々的な外交問題にまではならずに終わったとみなしていいでしょう。
国と国のお付き合いは動く人もお金も規模が大きく、数年に一回、心からのおもてなしをするのが双方にとっていいのかもしれませんね。
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
朝鮮通信使/wikipedia
文禄・慶長の役/wikipedia