天保十二年(1841年)6月29日は、第九代平戸藩主・松浦静山(まつら せいざん)が亡くなった日です。
「静山」は隠居した後の号で、この方は実に全278巻にも及ぶ『甲子夜話』の著者として知られます。
元々は「松浦清」という名前だったのですが、今回は静山のほうで統一しますね。
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移封や国替えもされずに平戸藩を治めた松浦家
松浦氏は嵯峨源氏の流れを汲む家の一つ。
戦国時代に松浦隆信という人が豊臣秀吉に従ったことで家を安定させました。
真面目・従順なのは血筋らしく、ちょっとしたことですぐ「改易!」になる江戸時代で、移封や国替えもされずにずっと平戸藩を領しています。
静山はその松浦家で、宝暦十年(1760年)に生まれました。
父の側室生まれだったことから当時は庶子扱いでしたが、祖父の前に父が亡くなってしまったこともあり、祖父の養子となることで平戸藩を継ぐことになります。
本名の名前が一文字(清)というのも武士としてはなかなか珍しいですが、これははるか昔のご先祖様である嵯峨源氏に、一文字名の人が多かったからだそうで。
嵯峨源氏の有名人としては、源氏物語の六条院のモデル「河原院」を作った
【源融】
などがいますね。
死後、幽霊になって宇多上皇とケンカした話がいくつか伝わっているので、その筋でも有名でしょうか。
ちなみに今も化けて出るとか出ないとか。
当時から残っているとされる榎の木の写真を見ると、確かに「あ、ここヤバイ」みたいな感じがします。
ついでに後世の話ではありますが、静山の孫・中山慶子が明治天皇の生母のため、彼は明治天皇のひいじーちゃんでもあります。
名前を伝統的なものにすると同時に、家の運も向いてきたんでしょうかね。
それにあやかってか、静山以降の松浦家当主は一字名を通しているそうで。
話があっちこっちに行きましたが、江戸時代に戻りましょう。
改革の方針や心構えを記した教科書を作り藩に浸透させる
15歳という若さで藩主の座についた彼は、他家同様に苦しくなっていた財政を立て直すため、さまざまな改革を行いました。
経費削減や組織の再編、身分を問わない人材登用など、やっていることはスタンダードかもしれません。
しかし、彼の改革には一つ大きな特徴があります。
自ら改革の方針や心構えを記した教科書のようなものを作り、「私はこの方針で行くからよろしく!」ということを、藩の皆に知らせたのです。
いつの時代も、情報伝達は口頭よりも文書のほうが確実なもの。この教科書によって藩主の考えがよく行き届いたのか、平戸藩の改革はうまく行きました。
改革を始めて四年後、静山19歳のときには藩校を作っていますから、少なくともこのときまでにそれなりの効果がみられたのでしょう。
でないと学校作ってる場合じゃないですからね。
この藩校が「維新館」という名前だったため、幕府から「どういうことだゴルァ」(※イメージです)と言われたそうです。
ちなみに「元ネタは詩経(古代中国の詩集)なんで他意はありません」と言い返して事なきを得ました。
ゴリ押しの見本みたいな対応ですね。個人的には好きです。
書いて書いて書きまくりの『甲子夜話』全278巻!
また、静山は思い切りの良い性格でもありました。
財政改善と後進の育成という仕事をやり遂げたと思ったのか、まだまだ現役でやっていける46歳のとき、あっさり隠居してしまうのです。
亡くなったのは81歳のときですから、文字通り半生を藩政に(……)、残りの半生を隠居生活に使ったことになります。
長い長い隠居生活で何をしていたかというと、書いて書いて書きまくっていました。
その集大成が『甲子夜話』。
「かっしやわ」と読み、文政四年十一月十七日(1821年12月11日)、甲子の日の夜に書き始めたことからこのタイトルになっています。
「甲子」とは60ある干支の組み合わせの最初の一つで、だからこそ書き始めるのにふさわしいと考えたのでしょう。
ともかく量が膨大で、全278巻。
文庫版も出ていますが、それでも20冊にもなるそうで、いったい何文字あるんだ……。
それだけ筆を握っていてよく腱鞘炎にならなかったもんですよね。
武道の達人でもあったから大丈夫だったんでしょうか。って、関係ない?
三英傑ホトトギスの句や信長から寧々への手紙も記載されている
甲子夜話は、戦国好きの間でもちょっと有名かもしれません。
「三英傑のホトトギスの句(作者不明)」
「織田信長がねねに送った手紙」
といった話が記載されているのです。
20年も書き続けていたので戦国武将の話だけではありません。
当時の政治に関することや一大事件、社会風俗、怪談まで、まさに随筆としかいいようがないネタの嵐。
怪談のチョイスもなかなか面白く、
「秋田には雷と一緒に落ちてくる獣(ただし人間に捕まっておいしく料理されるほど弱い)がいるそうな」
なんて話もあります。
隠居になったとはいえ自由に出歩けるわけでもないのに、どこで聞いたんでしょうか。
静山は、他にも蘭学に興味を持ったり、庶民が読むような小説が含まれていたり、「ワシは大名だぞ!(エッヘン)」みたいなコダワリがない人だったようなので、下男や下女のような身分の低い人から聞いたりしたのかもしれません。
甲子夜話の一部がこちらの個人サイト【座敷浪人の壺蔵】様に訳されているので、ご興味のある方は一度覗いてみるといいかもしれません。
一冊数千円するいきなり文庫本を20冊も買うのはなかなかの博打ですし。
※『甲子夜話 1 (東洋文庫 306)』(→amazon link)
ついでに言うと、他にも美人画集めをしていたり、17男16女という超子だくさん、かつほとんどが無事育っていたりと、本人もネタに事欠きません。
ぶっ飛んでいるだけでなく、仕事をきっちりこなした上で著作も残すという、戦国武将や政治家とはまた違ったチートぶりですよね。
ぜひ彼を主役にして、映画なり長編ドラマなりを作ってほしいものです。
長月 七紀・記
【参考】
松浦清/wikipedia
甲子夜話/wikipedia
長崎歴史・文化ネット