江戸時代

来日外国人も驚嘆!伊能忠敬が56歳から徒歩で作った大日本沿海輿地全図は神

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伊能忠敬(1745-1818)といえば?

・初めて正確な日本地図(大日本沿海輿地全図が)を作った
・それもかなりの高齢で始めた

歴史の授業ではそんな風に教わると思いますが、いざその足跡を追ってみると、教科書で習う内容とは印象が異なり、あまりの偉業に腰を抜かしてしまいそうになります。

なんせ当時はすでに死を迎えてもおかしくない56歳で地図制作をスタート。
それも全て徒歩で距離を測りながら行っているのです。

大金を貰っても気乗りのしないその作業は、一体どんな内容だったのか?
伊能忠敬の功績を振り返ってみました。

大日本沿海輿地全図武蔵/国立国会図書館蔵

 

伊能忠敬は上総国で名主の生まれ

測量のためですから、正しく長さを図れないと意味がありません。
伊能忠敬はその基準として自分の歩幅を使いました。

ほぼ一定の幅で歩くように意識し、何歩分にあたるかという計算で距離を割り出していったのです。

同行する人々にもそのための訓練を行い、歩数の平均で可能な限り正しい距離を出すことに注力し続けました。

自宅から駅までの10分さえも、面倒がる現代人。
それを日本全国でやったなんてとても信じられませんね。

あー、言ってみたい!
海岸線を淡々と歩く伊能さんの背中をトントン叩いて、iPhone見せて……。

「グーグルマップ見ます?」

と、冗談はさておき、伊能さんも、もちろんいきなり測量の旅を始めたわけではありません。

伊能忠敬は上総国(今の千葉県北部)の名主の生まれだったのですが、商家の婿養子になっていました。

もともと頭の良い人だったのでしょう。
婿入り後はお金を稼いで家を再興させ、役人まで勤めていたのです。

そして50歳で隠居したのですが、ここで本当に「ご隠居」にはなりませんでした。

香取市佐原の伊能忠敬旧宅

 

年下を先生と呼ぶ謙虚さに平服

何を思ったのか。
伊能忠敬は、長男に家を譲った後、江戸に出て勉強を始めます。

後の地図作りに必要な学問で、測量や天体観測など。

このとき師事した高橋至時よしときが19歳も年下だっていうんだから地味に凄いですよね。
普通、そんなに年下の人に「先生」なんてなかなか言えないものです。

息子のようなお師匠様・高橋至時よしときにしても、伊能忠敬の真剣な姿勢を尊敬していたようで「推歩すいほ先生」と呼んでいたそうです。

つまりは、こんな感じで会話していたんだろうなぁ……。

「先生!」
「なんでしょう?先生」
「あのですね、先生」
「そうですか、先生」

ちなみに推歩先生の推歩とは「天文学における計算」という意味だそうで、歩いて地図を作った伊能にとってはピッタリですね。

かくして伊能忠敬は、資金や学問など、測量をするための準備を整えると、実際に測量の旅へと出るのですが……さすがに一度で日本全土を測量するのは無理だと判断したのでしょう。それは計10回にわたるものでした。

しかし、そのスケジュールが、トンデモナイのです。

旅は短くても4か月強。
長いと実に1年半もかけて測量をしているのです。

繰り返しますが、徒歩です。
グーグルマップなんかないんですよ。

大日本沿海輿地全図武蔵・江戸をクローズアップ/国立国会図書館蔵

 

若き師匠・高橋が41歳で亡くなってしまう

そんな伊能さんにもやはり老化は訪れます。

晩年には「歯がすっかり抜けてしまって、大好きな奈良漬も食べられない。悲しい」という手紙を娘に送っています。
ここだけ見ると、現代のおじいちゃんとあまり変わりませんね。

途中には、悲しい出来事もありました。

お師匠様の高橋至時が、41歳という若さで亡くなってしまったのです。

この人は歩き回るのではなく、インドアで天体の動きを研究して、暦を太陰暦から太陽暦に変えようという壮大な挑戦をしておりました。
死因は過労死とも言われていますので、やっぱり外歩き、ほどほどの運動が体にはいいのでしょう。

高橋が亡くなったとき、伊能忠敬が測量を始めて4年が経過。
若い先生の死を悲しみましたが、諦めずに、伊能はひたすら歩き続けます。

富岡八幡宮の伊能忠敬像

日本地図を完成させることが供養になるとも考えたのでしょう。

全ての測量が終わったのは、忠敬72歳のとき。
途中不参加となってしまう回もありましたが、56歳から前後17年に渡って測量を続けたことになります。

17年間のうち年1/3から1/2は家を空ける生活……想像すらできません。
ガッツとか根性とか、そういう言葉を超越したレベルでしょう。

 

英国人もびびった伊能地図の完成度

彼の作った地図は、その後、日本を訪れた西洋人たちを大変驚かせます。
正しい地図を作るのには、費用も技術も時間もかかるからです。

忠敬の死後数十年して、イギリスが日本の周囲を無理やり測量しようとしたことがあります。
測量をする=地形を知られることになるので、これは軍事的にも大変危ういことでした。

しかし、イギリスの測量スタッフを案内した役人が伊能忠敬の地図を持っていたのです。

これを見たイギリス側はビックリどころではありません。
今から作ろうと思っていたのに、既に正確な地図があったのですから。

「作る必要ないじゃんHAHAHAHA!」と言いながら、内心は冷や汗モノだったでしょうね。(つか、役人も軽々しく見せるなよ)

当時は東洋人=未開の野蛮人のように思われていた時代です。
見下していたのに、自分達を上回るほどの技術を持っているかもしれない……と空恐ろしくもなったでしょう。

ある意味では、伊能忠敬の地図が、アジアで数少ない独立国を保てたことにつながっているのかもしれません。

伊能忠敬はマッチョマンでもなければ、最初から大金持ちだったわけでもありません。
自分がやりたいことのために頑張ったのです。

しかも始めたのは56歳という高齢。
偉業は年齢ではなく精神によって成されることがよくわかります。

ちなみにお墓は遺言に従ってお師匠さん高橋至時の隣に作られました。

くぅ〜〜!
どこまで泣かせるオッサンなんだよ!

伊能忠敬記念館(千葉県香取市)が所蔵する「伊能忠敬関係資料」は現在国宝に指定されています。

番所鼻自然公園・伊能忠敬の絶賛の碑

文:川和二十六

【参考】
四千万歩の男 忠敬の生き方 (講談社文庫)
「あの人の人生を知ろう~伊能忠敬編」

 



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