【敵に塩を送る】という言葉がある。
武田信玄が、駿河の今川家と敵対したため塩留めされ(塩の流通を止められ)、国全体で苦しんだ――そのときに供給してくれたのがライバルの上杉謙信。
ザックリ言うとそんな内容であり、好敵手同士の友情やら何やらを示す逸話として広く知られている。
いかにも創作の香り漂うエピソードであるが、意外にも部分的には史実と言える。
実情は美談などではなく、一言で表すならば単なる「商売」「外交」であった。
どういうことか?
少し詳しく振り返ってみよう。
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謙信が立ちはだかって北の海は目指せない
桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討ち取られると、武田信玄は同盟を破棄して駿河へ攻め込んだ。
同盟とは甲相駿三国同盟である。
今川だけでなく北条との平和も絡んだこの重要な結びつきを、自らぶっ壊してまで駿河攻めを選んだ理由は、ライバル上杉謙信の存在があったからだろう。
信玄の弟・武田信繁や、築城名人の山本勘助、古くは板垣信方など。
武田家は、多大な犠牲を払って北信濃を制したが、そこから海を目指して北上となると、上杉謙信のいる越後攻めが必要になり、今まで以上の兵力消耗が容易に想像できる。
※上記のように、長野から新潟の海を目指す先には、謙信の本拠地・春日山城が立ちはだかる
さすがに厳しいな……というタイミングで起きたのが、1560年【桶狭間の戦い】だった。
海のある駿河を絶対に落としたい
海道一の弓取りと言われた今川義元が、信長に首を取られて討死。
跡を継いだ今川氏真は和歌や蹴鞠を愛する公家志向なタイプで、その祖母・寿桂尼がいなければすぐにでも空中分解しそうな状態だった。
そこで信玄は、嫡男・武田義信の猛反発を振り切り、駿河攻めを決心する。
義信が反対したのは、彼の奥さんが今川義元の娘だったから。
ヘタをすればその義信に謀反を起こされ、実父の武田信虎に続き、信玄自らも追放されるリスクにさらされるかもしれないが、背に腹は代えられず駿河への南進方針を取る。
領土拡大や海路確保のため、どうしても攻め込むしかなかったのだ。
ちょっとややこしいので時系列を年表で整理しておくと……。
1560年 桶狭間の戦い
↓
1564年 最後の川中島の戦い
↓
1567年 武田義信が死没
↓
1568年 駿河攻め開始
なんだかんだで桶狭間からは約8年、最後となる川中島の戦いからも約4年が経過している。
信玄としてもタイムリミットだったのだろう。
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