敵に塩を送る

絵・富永商太

武田・上杉家

上杉から武田へ「敵に塩を送る」美談はドコまで本当か|部分的には史実だった?

2025/01/10

【敵に塩を送る】という言葉がある。

武田信玄が、駿河の今川家と敵対したため塩留めされ(塩の流通を止められ)、国全体で苦しんだ――そのときに供給してくれたのがライバルの上杉謙信。

ザックリ言うとそんな内容であり、好敵手同士の友情やら何やらを示す逸話として広く知られている。

いかにも創作の香り漂うエピソードであるが、意外にも部分的には史実と言える。

実情は美談などではなく、一言で表すならば単なる「商売」「外交」であった。

どういうことか?

少し詳しく振り返ってみよう。

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謙信が立ちはだかって北の海は目指せない

桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討ち取られると、武田信玄は同盟を破棄して駿河へ攻め込んだ。

同盟とは甲相駿三国同盟である。

今川だけでなく北条との平和も絡んだこの重要な結びつきを、自らぶっ壊してまで駿河攻めを選んだ理由は、ライバル上杉謙信の存在があったからだろう。

信玄の弟・武田信繁や、築城名人の山本勘助、古くは板垣信方など。

武田家は、多大な犠牲を払って北信濃を制したが、そこから海を目指して北上となると、上杉謙信のいる越後攻めが必要になり、今まで以上の兵力消耗が容易に想像できる。

※上記のように、長野から新潟の海を目指す先には、謙信の本拠地・春日山城が立ちはだかる

さすがに厳しいな……というタイミングで起きたのが、1560年【桶狭間の戦い】だった。

 


海のある駿河を絶対に落としたい

海道一の弓取りと言われた今川義元が、信長に首を取られて討死。

跡を継いだ今川氏真は和歌や蹴鞠を愛する公家志向なタイプで、その祖母・寿桂尼がいなければすぐにでも空中分解しそうな状態だった。

寿桂尼/wikipediaより引用

そこで信玄は、嫡男・武田義信の猛反発を振り切り、駿河攻めを決心する。

義信が反対したのは、彼の奥さんが今川義元の娘だったから。

ヘタをすればその義信に謀反を起こされ、実父の武田信虎に続き、信玄自らも追放されるリスクにさらされるかもしれないが、背に腹は代えられず駿河への南進方針を取る。

領土拡大や海路確保のため、どうしても攻め込むしかなかったのだ。

ちょっとややこしいので時系列を年表で整理しておくと……。

1560年 桶狭間の戦い

1564年 最後の川中島の戦い

1567年 武田義信が死没

1568年 駿河攻め開始

なんだかんだで桶狭間からは約8年、最後となる川中島の戦いからも約4年が経過している。

信玄としてもタイムリミットだったのだろう。

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BUSHOO!JAPAN(五十嵐利休)

武将ジャパン編集長・管理人。 1998年に大学卒業後、都内出版社に入社し、書籍・雑誌編集者として20年以上活動。歴史関連書籍からビジネス書まで幅広いジャンルの編集経験を持つ。 2013年、新聞記者の友人とともに歴史系ウェブメディア「武将ジャパン」を立ち上げ、以来、累計4,000本以上の全記事の編集・監修を担当。月間最高960万PVを記録するなど、日本史メディアとして長期的な実績を築いてきた。 戦国・中世・古代・幕末をはじめ、幅広い歴史分野をカバーしつつ、Google Discover 最適化、クラスタ構造にもとづく内部リンク戦略、画像最適化、SEO設計に精通。現在は企業のオウンドメディア運用およびコンテンツ制作コンサルティングも手がけ、歴史 × Web編集 × SEO の三領域を横断する専門家として活動している。 ◆2019年10月15日放送のTBS『クイズ!オンリー1 戦国武将』に出演(※優勝はれきしクン) ◆国立国会図書館データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/001159873

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