「ぜってぇ、ブッコロしてやる!!!!」
と、人間誰しも殺意を覚えることってありますよね。
もちろんフツーは実行できないワケですが、江戸時代以前となれば実力行使は珍しくなく、本日はその中でもド派手なエピソードをご紹介したいと思います。
元禄七年(1694年)2月11日は、高田馬場の決闘が行われた日です。
字面だけ見ると何となくカッコイイ感じがしますが、詳細を見ていくと、モヤっとする部分も多い。
何がどうしてこうなったのか。
見て参りましょう。
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西条藩士たちが喧嘩して、仲直りの盃で口論して
決闘をしたのは、西条藩(現・愛媛県)の藩士である
菅野六郎左衛門(ろくろうざえもん)
と
村上庄左衛門(しょうざえもん)
でした。
いつもなら江戸時代以前の人物名は下の名前で書かせていただいているのですが、字面が似ていてややこしいので、今回は名字で表記します。長いし。
この4日前に、菅野と村上は一緒に仕事をして、そこでちょっとした言い争いになり、他の藩士たちに止められた……ということがありました。
二人は仲直りのために盃を交わしたのですが、酒が入って気分が高ぶったのか、その席でまたしても口論になってしまいます。「元の木阿弥」とはこのことですかね。
そして高田馬場で決闘し、互いの正否を問うことになりました。
決闘には助太刀を頼むのがデフォ
「そんなことで物騒過ぎるだろ><;」
とツッコミたくなりますが、実は”藩内での刃傷沙汰”というのは珍しい話でもありません。
藩邸の敷地内で殺人事件が起きて、江戸詰めのお偉いさんが後始末に奔走する、ということもままあったようです。怖っ!
菅野と村上の件も、この時点ではよくある下層武士のトラブルだったでしょうね。
また、こういうときは知り合いや兄弟に助太刀を頼むのが普通でした。
村上は兄弟と家来合わせて6~7人を味方につけましたが、菅野は2人しか味方が集まらず、焦ります。そのままでは多勢に無勢ですからね。
そのため、同じ道場に通っていた中山安兵衛に
「もし俺に万が一のことがあったら、妻子と仇討ちを頼みたい」
と相談しました。
中山は剣の達人でしたから、「それなら万が一といわず、助太刀を受け合おう」と言い、菅野もありがたく厚意を受けることにします。
村上が菅野の眉間を斬り、菅野は村上の両手に重症を負わせ
喧嘩から4日が経過。
現代人なら普通にアタマも冷えていそうなものですが、決闘は予定通り行われることになりました。
いったい何が原因で、お互いこんなに激怒したのでしょうかね……。
そして2月11日、高田馬場の地へ菅野方が先に、後から村上が一人でやってきました。
菅野は「ひょっとして、どこかに味方を潜ませているのでは」と思い、家来にあたりを見回らせました。
すると、木の陰に村上の弟が二人潜んでいたことがわかります。
「挟み撃ちにするつもりか」と気づいた菅野は、素知らぬ顔で村上に話しかけたそうです。
そこから斬り合いが始まりました。
助太刀の者同士も戦っていましたが、菅野と村上もすさまじい斬り合いを演じています。
村上が菅野の眉間を斬り、菅野は村上の両手に重症を負わせたそうです。
手をやられた時点で菅野の勝ちも同然な気がしますが、村上は退かずにもう一度菅野の眉間を狙いました。
そこに菅野の助っ人である中山が飛んできて、村上を斬り伏せたといいます。
「当人同士の勝負じゃなくていいんかい?」
という気もしますが、助っ人を頼んだ時点で、お互いにそのことは織り込み済みです。
信憑性が高いとされている細川家の記録でもこのダイナミックさなので、この一件は作家や講談師の創作意欲を大いに刺激します。
「18人も斬った」と喧伝された中山は赤穂浪士に……
当時の瓦版でも、「中山が18人も斬った」と喧伝されたそうです。
中山自身は3人と考えていたようなので、実に6倍もの詐称です。
これはひどい(´・ω・`)
現在の新聞にあたる瓦版がそんな感じなので、芝居の脚本は言わずもがな。
現代でいえば、「大河ドラマや司馬遼太郎の小説の創作部分が事実と認識されるようになった」というところですかね。
決闘の舞台は、その後住所表記が変更され、現在は高田馬場ではなく西早稲田となっています。
近隣の水稲荷神社には、中山の武功をやや創作寄りに書いた記念碑が立っているとか。
漢文なのでなかなか読みづらいですが、ググる先生にお尋ねすると、書き下し文が出てきます。

水稲荷神社/photo by 三人日 wikipediaより引用
また、この決闘ゆかりの地として、学習院大学に「血洗いの池」というものがあります。
こちらは大正時代に同校(当時は学習院高等科)の生徒が考えた創作だとか。
血洗いの池付近にはハクビシンが住み着いているらしいので、そのうち関連した怪談でも出てきそうですね。
赤穂浪士のメンバーにもなっているだと!?
中山の活躍が派手すぎたせいか。
なぜ菅野と村上が決闘するに至ったのか、という非常に重要な部分は知られていません。
当事者が二人ともその場で亡くなってしまっているので、後から聞くこともできなかったのでしょうね。
どうせなら、中山には二人の代わりに事の経緯を書き残しておいてもらいたかったものです。
決闘するほど腹の立つ相手と同じ命日になるというのも、それはそれで無念でしょうねえ。
あの世でも決闘してたりして、うーん。
ちなみに中山はその後、「18人斬り」の評価が広まり、赤穂藩主・浅野長矩に引き抜かれ、赤穂藩士の家に養子入りします。
さらに、忠臣蔵こと元禄赤穂事件で吉良邸討ち入りに参加し、後に切腹しています。
「二回も仇討ちに関わった人物」
というのも、記録に残っている中ではかなり珍しいでしょうね。
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
『これが本当の「忠臣蔵」 (小学館101新書―江戸検新書)』(→amazon)
高田馬場の決闘/Wikipedia