しかし、いったんハマるとこれほど抜け出せない学問もないようで、江戸時代の日本でも広く親しまれていました。
その中に一人の天才がいます。
宝永五年(1708年)10月24日に亡くなった関孝和(たかかず/こうわ)です。
和算(わさん)という日本独自の数学を修めた天才で、当時の世界レベルにあったと思われる方。
群馬県出身者の皆様には『上毛カルタ』の「わ」でお馴染みの存在ですね。
早速、その生涯を見て参りましょう。
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主君に数学の才を買われ
関孝和は、小さいころから『塵劫記(じんこうき)』などの数学書を好んで読んでいたという、根っからの数学好き。
いつ・どこで・誰に数学を教わったのかはわかっていません。
江戸時代ではなんとなく興味を惹かれてやり始めたら、いつの間にかその道で食べていけるほどになった――そんなタイプの学者や研究家がたびたび登場するため、彼もその一人だったのかもしれません。
孝和の青年期あたりでも色々と数学書が出版されていましたし、寺社に数学の問題を奉納して解答者を募る“算額”もありました。
おそらく幼少期にそういったものに触れ、興味関心を強めていったのでしょう。
現代であれば、いわゆる“ギフテッド”として知られた可能性もありますね。
孝和は、身分としてはそう高くはないものの、数字に対する尋常ならざる情熱っぷりを買われてか、甲府宰相・徳川綱豊の勘定吟味役として仕えることになります。
米や金銭、土地について監査する役職です。
ここでの働きぶりが評価されたようで、宝永元年(1704年)に綱豊が江戸に来るときにもお供をすることになりました。
そう、徳川綱豊とは後の徳川家宣だったのです。
幕府の御納戸組頭に抜擢
当時の将軍は五代・徳川綱吉。
綱豊からすると叔父にあたります。
綱吉には成人した実子がいなかったので、最も血筋が近い綱豊が養子となり、将軍位を継がせることになりました。
綱吉については【生類憐みの令】をはじめ、近年では
「江戸の人々に倫理観をもたらしたのではないか」
という見方も出てきていますね。
一方でお酒に税をかけたり、貨幣を作る段階で金属に混ぜ物をしたり、経済面では失政をやらかしていました。
新しく六代将軍となった徳川家宣の急務は、まずこれらを正して幕府への信頼を取り戻すこと。
その過程でなくてはならないのが経済や数学に強い人材……ということで、孝和にもお声がかかったようです。
孝和は江戸入り後に“御納戸(おなんど)組頭”という役職を任されます。
御納戸は将軍家の金銀・衣服・調度などの出納を担当する役職で、御納戸組頭はそこの責任者です。
勘定吟味役として働いていた甲府での実績が高く評価され、江戸幕府でもそのまま重用されたことがうかがえますね。
円周率を導き出すほどの頭脳だった
江戸に来る前の関孝和は、甲府周辺の地図を作成。
その後、新しい暦(カレンダー)を作ろうとしたのですが、他の人に追い越されてしまって完成させることはできませんでした。
その代わり、暦を作る過程で円周率が必要になったため、正131,072角形という「そりゃ、もう、円じゃね?」という図形を使って近似値を割り出します。
その結果が“3.141592653589”という現代でも通用する数字だったというのですから凄まじい。
頭の中がどうなっていたのやら、いやはや凡人には想像すらできません。
しかし孝和の本領発揮はここから。
中国から伝わっていたのにすっかり忘れ去られていた「天元術」という計算方法を発展させ、「発微算法(はつびさんほう)」というやり方を編み出します。
ゲームだったら何かを召喚できそうな……あるいは必殺技のような名称ですね。
天元術については孝和以前にも、和算家の沢口一之(かずゆき)という人が研究していて、本も出ていたのですが、天元術のままでは答えが出せない問題がありました。
沢口一之はその15問を巻末に載せ、
「俺はできなかったけど誰かやってみろよ!」
と書き残していたのです。
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