間部詮房

間部詮房の木像(浄念寺所蔵)/wikipediaより引用

江戸時代

大奥の夜遊びスキャンダルに巻き込まれた間部詮房~日本史屈指の出世人

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噂を立てられても、仕事!仕事!仕事!

身分が低いとはいえ武士の生まれである詮房が、それがわからないほどのアホではないでしょう。

それに、家宣から家継を任されていたのですから、わざわざそんな危ない橋を渡らなくても、家継を手玉に取ることなどたやすかったはずです。

実際、家継は詮房を父のように思って懐いても恐れてもいたといわれており、なかなか女中の言うことを聞かないときでも

「越前殿が参られます」

と言えばすぐに素直になったとか。

反感を買い続けた詮房と言えば、そうした悪評に対し、何らかの改善策を講じた形跡は一切ありません。

「人の噂も七十五日」と言わんばかりに、さらに仕事に邁進しておりました。

せめてここでもうちょっと自分の派閥を作るなり賄賂で手なずけておくなりしておけばよかったのですかね……。

しかし、根が真面目ゆえに「きちんと仕事をしていれば問題ない」と思っていたようです。

 

月光院が失墜したばかりか将軍も亡くなってしまい

そんな詮房に、ついに終わりのときがやってきました。

理由の一つとなったのが、江戸時代きっての綱紀粛清である【絵島生島事件(江島生島事件)】です。

かなり要約しますと

「月光院の代わりに家宣のお墓参りに行った絵島が、その帰りに歌舞伎を見物し、気に入った役者と密会」

発覚

「大奥に対する綱紀粛正として多くの人が罰せられる」

というものです。

お芝居などでは「衣装箱に役者を潜ませて大奥に連れ込んだ」などと話が誇張されていますね。

この事件で最も重く罰せられた絵島という女性は、月光院の右腕。そのため月光院も幕府に対する影響力を失い、詮房もまた後ろ盾を半分失うような形になりました。

さらに、二つめの理由によって詮房は完全に権力を失います。

元々病弱だった家継が、わずか7歳で亡くなってしまったのです。

次に将軍になったのは、暴れん坊将軍こと徳川吉宗。

「権現様の時代になかったものは一旦全部取り消し!」ということで、側用人という新しい(そして絶大な権力を持っていた)役職についていた詮房はものの見事にクビになってしまいました。

領地も江戸から遠く離れた場所へ変えられています。

庇い立てしてくれる幕閣もおらず、詮房はその後一大名として生涯を閉じることになりました。

 

家自体は江戸期を生き抜く

最後は寂しい終わりとなった詮房。

間部家そのものは江戸時代を生き抜いています。

詮房には息子がいなかったので弟を養子にして跡を継がせ、幕末には「間部の青鬼」と呼ばれた老中・間部詮勝(まなべ あきかつ)を輩出、明治時代には子爵の地位も与えられました。

家としては充分勝ち組ですね。

もし、当時の日本が「仕事できるならプライベートで何してようとおk」という方針だったとしたら、そもそも江島生島事件は問題にならず、詮房も失脚しなかったでしょう。

たとえ能力が高くても、普段から調和にも気を払っておかないと厳しいのが大きな組織かもしれませんね。

間部詮房は、石田三成あたりとウマが合いそうな気もします。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
歴史読本編集部『歴史読本2013年1月号電子特別版「徳川15代将軍職継承の謎」』(→amazon
歴史読本編集部『歴史読本2014年12月号電子特別版「徳川15代 歴代将軍と幕閣」』(→amazon
間部詮房/Wikipedia

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