間部詮房

間部詮房の木像(浄念寺所蔵)/wikipediaより引用

江戸時代

大奥の夜遊びスキャンダルに巻き込まれた間部詮房は屈指の出世人

こちらは3ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
間部詮房
をクリックお願いします。

 


月光院が失墜したばかりか将軍も亡くなってしまい

そんな詮房に、ついに終わりのときがやってきました。

理由の一つとなったのが、江戸時代きっての綱紀粛清である【絵島生島事件(江島生島事件)】です。

かなり要約しますと

「月光院の代わりに家宣のお墓参りに行った絵島が、その帰りに歌舞伎を見物し、気に入った役者と密会」

発覚

「大奥に対する綱紀粛正として多くの人が罰せられる」

というものです。

お芝居などでは「衣装箱に役者を潜ませて大奥に連れ込んだ」などと話が誇張されていますね。

この事件で最も重く罰せられた絵島という女性は、月光院の右腕。

そのため月光院も幕府に対する影響力を失い、詮房もまた後ろ盾を半分失うような形になりました。

さらに、二つめの理由によって詮房は完全に権力を失います。

元々病弱だった家継が、わずか7歳で亡くなってしまったのです。

次に将軍になったのは、暴れん坊将軍こと徳川吉宗

「権現様の時代になかったものは一旦全部取り消し!」ということで、側用人という新しい(そして絶大な権力を持っていた)役職についていた詮房はものの見事にクビになってしまいました。

領地も江戸から遠く離れた場所へ変えられています。

庇い立てしてくれる幕閣もおらず、詮房はその後一大名として生涯を閉じることになりました。

 


家自体は江戸期を生き抜く

最後は寂しい終わりとなった詮房。

間部家そのものは江戸時代を生き抜いています。

詮房には息子がいなかったので弟を養子にして跡を継がせ、幕末には「間部の青鬼」と呼ばれた老中・間部詮勝(まなべ あきかつ)を輩出、明治時代には子爵の地位も与えられました。

家としては充分に勝ち組ですね。

もし、当時の日本が「仕事できるならプライベートで何してようとおk」という方針だったとしたら、そもそも江島生島事件は問題にならず、詮房も失脚しなかったでしょう。

たとえ能力が高くても、普段から調和にも気を払っておかないと厳しいのが大きな組織かもしれませんね。

間部詮房は、石田三成あたりとウマが合いそうな気もします。


あわせて読みたい関連記事

石田三成
石田三成・日本史随一の嫌われ者を再評価~豊臣を支えた41年の生涯

続きを見る

徳川家宣
在任3年で亡くなった六代将軍 徳川家宣は清廉クレバーな人物だった?

続きを見る

徳川綱吉
徳川綱吉は犬公方というより名君では?暴力排除で倫理を広めた人格者

続きを見る

豊臣秀吉
豊臣秀吉のド派手すぎる逸話はドコまで本当か?62年の生涯まとめ

続きを見る

新井白石
幕府に呼ばれ吉宗に追い出された新井白石~学者は政治に向いてない?

続きを見る

松平定信
白河藩での手腕が抜群だった松平定信~なぜ寛政の改革では失敗した?

続きを見る

モンテスパン侯
俺の妻を返せ!ルイ14世に愛妻を寝取られたモンテスパン 奇行に走る

続きを見る

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
歴史読本編集部『歴史読本2013年1月号電子特別版「徳川15代将軍職継承の謎」』(→amazon
歴史読本編集部『歴史読本2014年12月号電子特別版「徳川15代 歴代将軍と幕閣」』(→amazon
間部詮房/Wikipedia

TOPページへ


 



-江戸時代
-

×