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【伊能忠敬】
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若き師匠・高橋が41歳で亡くなってしまう
そんな伊能忠敬にもやはり老化は訪れます。
晩年には「歯がすっかり抜けてしまって、大好きな奈良漬も食べられない。悲しい」という手紙を娘に送っています。
ここだけ見ると、現代のおじいちゃんとあまり変わりませんね。
途中には、悲しい出来事もありました。
お師匠様の高橋至時が、41歳という若さで亡くなってしまったのです。
この人は歩き回るのではなく、インドアで天体の動きを研究して、暦を太陰暦から太陽暦に変えようという壮大な挑戦をしておりました。
死因は過労死とも言われていますので、やっぱり外歩き、ほどほどの運動が体にはいいのでしょう。
高橋が亡くなったとき、伊能忠敬が測量を始めて4年が経過。
若い先生の死を悲しみましたが、諦めずに、伊能はひたすら歩き続けます。
日本地図を完成させることが供養になるとも考えたのでしょう。
全ての測量が終わったのは、忠敬72歳のとき。
途中不参加となってしまう回もありましたが、56歳から前後17年に渡って測量を続けたことになります。
17年間のうち年1/3から1/2は家を空ける生活……想像すらできません。
ガッツとか根性とか、そういう言葉を超越したレベルでしょう。
英国人もびびった伊能地図の完成度
伊能忠敬の作った地図は、その後、日本を訪れた西洋人たちを大変驚かせます。
正しい地図を作るのには、費用も技術も時間もかかるからです。
忠敬の死後数十年して、イギリスが日本の周囲を無理やり測量しようとしたことがあります。
測量をする=地形を知られることになるので、これは軍事的にも大変危ういことでした。
しかし、イギリスの測量スタッフを案内した役人が伊能忠敬の地図を持っていたのです。
これを見たイギリス側はビックリどころではありません。
今から作ろうと思っていたのに、既に正確な地図があったのですから。
「作る必要ないじゃんHAHAHAHA!」と言いながら、内心は冷や汗モノだったでしょうね。(つか、役人も軽々しく見せるなよ)
当時は東洋人=未開の野蛮人のように思われていた時代です。
見下していたのに、自分達を上回るほどの技術を持っているかもしれない……と空恐ろしくもなったでしょう。
ある意味では、伊能忠敬の地図が、アジアで数少ない独立国を保てたことに繋がっているのかもしれません。
★
伊能忠敬はマッチョマンでもなければ、最初から大金持ちだったわけでもありません。
自分がやりたいことのために頑張ったのです。
しかも始めたのは56歳という高齢。
偉業は年齢ではなく精神によって成されることがよくわかります。
ちなみにお墓は遺言に従ってお師匠さん高橋至時の隣に作られました。
くぅ〜〜!
どこまで泣かせるオッサンなんだよ!
伊能忠敬記念館(千葉県香取市)が所蔵する「伊能忠敬関係資料」は現在国宝に指定されています。
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文:川和二十六
【参考】
井上ひさし『四千万歩の男 忠敬の生き方 (講談社文庫)』(→amazon)
「あの人の人生を知ろう~伊能忠敬編」(→link)