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柔道着姿の嘉納治五郎/国立国会図書館蔵

いだてん特集 明治・大正・昭和時代

嘉納治五郎は柔道だけじゃない!77年の生涯をスポーツ発展と教育に捧げた偉人

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嘉納治五郎(かのうじごろう)とは、柔道の創始者――というのは多くの日本人に知られた話です。

基本は人を殺すための武術であった柔術を競技としての柔道に仕上げ、「講道館」という道場を設立したことでも知られます。

しかし!
2019年大河ドラマ『いだてん』で、そのイメージは一変されるかもしれません。

役所広司さんが演じるの嘉納治五郎。
彼は実は、柔道の近代化に尽くしただけではなく、『いだてん』の主人公である金栗四三を見いだし、ストックホルム五輪へと導いた人物でもあります。

それだけではありません。
偉大な教育者でもあり、世界的な競技イベントを日本へ最初に持ち込んだ経歴も持つ方なのです。

一体どんな人物だったのでしょうか。

嘉納治五郎/国立国会図書館蔵

 

動機は「喧嘩に勝ちたい」だった

幕府の軍艦・咸臨丸が、日米修好通商条約批准のために太平洋を横断した蔓延元年(1860年)。
その年12月10日(新暦10月28日)に、摂津国の名家である嘉納家に、嘉治五郎は誕生しました。

江戸城の無血開城が行われ、箱館戦争の終了した翌明治3年(1870年)、明治新政府に招聘された父・嘉納治朗作は、息子を連れて上京します。
文明開化の波押し寄せる東京で、嘉納治五郎は書道、漢学、英語を学びました。

明治7年(1874年)、嘉納は育英義塾(のちの育英高校)に入塾。
学問の成績は極めて優秀ながら彼には、悩みがありました。

「俺は成績では誰にも負けぬ。しかし腕っ節で負けてしまうのはどうしたものだろうか」

虚弱体質とまでは言わないものの、腕力では級友に負けてしまう。
成績では勝っているのに、喧嘩で負けてしまう――これでは余計に軽んじられてしまうことが、悔しくてたまりませんでした。

「柔術は、腕力でかなわぬ相手でも投げ飛ばすことができるらしい」

悔しい思いをモヤモヤとさせていた嘉納は、ある日そんなことを聞きました。

柔術を学べば喧嘩に勝てる!
そう確信した嘉納は柔術を習おうとしますが、どうにもうまくいきません。

周囲は冷淡でした。

「今は文明開化の時代。柔術なんて、そんな古くさいものを今更学ぶ必要はありません。英語をみっちりと学びなさい」

そんなわけで、官立東京開成学校(1877年に東京大学)へ進学。
今では考えられないかもしれませんが、東大もかつては、育英義塾以上に腕力がものを言うスクールカーストでした。

「ここでもやっぱり喧嘩が弱いとバカにされる。どうにかしたい!」

英語を学ぶはずが、ますます柔術に憧れる嘉納。
とはいえ、英語力もしっかりと身につけているのが、根っからの秀才体質と申しましょうか。

その後、明治11年(1878年)に漢学塾二松學舍(後の二松學舍大学)へ進んでも、柔術への思いは強まるばかり。そんなあるとき、嘉納は思いつきました。

「整骨をする者は、柔術の名人は多いと聞く。つまり、整骨院をしらみつぶしに探していけば、柔術の名人が見つかるに違いない!」

かくして嘉納は、学問の合間に整骨院巡りをはじめたのです。
なんとも面白い発想をする方ですね。

 

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整骨院で運命の出会い、天神真楊流入門

嘉納は整骨院の看板を片っ端から訪問しました。

「いやあ、柔術なんてさっぱりわかりませんな」
「昔はやっていましたけど、御一新だの文明開化の時代ですからねえ。今更やりませんや」

しかし、相手の返事はそっけないものでした。常人ならば諦めるところです。
粘り強く、探究心に満ちた嘉納にそのような諦念は湧いてきませんでした。

そんな時、日本橋のとある整骨院を訪れてみると……髪も髭も真っ白、それでいて鍛え上げた肉体を持つ、ただならぬ雰囲気の老人と出会います。

「じゅ……、柔術はなされますか?」
嘉納がそう問いかけると、老人はじっとこちらを見てきます。

「なぜそのようなことを尋ねるので?」
嘉納は、柔術へのあこがれを熱心に語りました。

すると老人は膝を叩いて喜びました。
「ハッハッハ! このご時世に殊勝な心がけである」

老人は八木貞之助といいました。
自分は老齢で指導できない――ゆえに同門であり、天神真楊流を学んだ福田八之助を訪ねろと紹介してくれたのです。

磯又右衛門、吉田千春 天神真楊流極意教授図解『投捨 片胸捕』/photo by wikipediaより引用

さて、この天神真楊流の道場はなかなか荒っぽいものでして。

師匠の福田に投げ飛ばされた嘉納。

こう尋ねます。
「今の技はどう投げたのですか?」
「おいでなさい」
すると福田は、嘉納を掴んで投げ飛ばしたのです。

投げられた嘉納はまだ聞き返し……ということを繰り返しまして。
「聞いたところでわかりませんよ。ただ、数さえかければ出来るようになる。さあ、おいでなさい」

何度も何度も投げ飛ばされるのです。
稽古は、基本、体で覚えろというものでした。

 

稽古のあとは筋肉痛で体がギシギシと悲鳴をあげ、立ち上がることすらできない始末。
生傷の絶えない肉体に膏薬を貼り付けて練習に励んだのでした。

当時、柔術は前述の通り文明開化のあおりで下火でした。
嘉納は友人を稽古に誘うものの、皆断るか、途中で辞めてしまう有様です。

そんな柔術界隈で、やる気と若さにあふれた嘉納は、メキメキと頭角を現します。

明治12年(1879年)7月には、あの経済人・渋沢栄一の依頼を受け、来日中のユリシーズ・グラント前アメリカ合衆国大統領に披露する柔術演武に参加しました。

20代の頃の嘉納治五郎/wikipediaより引用

 

「講道館」創設

その後、嘉納は、師匠を変えながらも柔術を続けてました。

ただし、嘉納は柔術だけの男ではありません。
大学で学業にも励むとともに、様々なスポーツにも挑戦しました。

当時伝わったばかりの野球等にも取り組んでいます。

が、結論は常に同じでした。
「うむ、柔術ほど鍛錬が気軽にできるものはない。やはり柔術を習って正解だ」

柔術の鍛錬は、精神的にもよいものでした。
生まれつき短気であった嘉納は、柔術を学ぶにつれ、穏やかで我慢強い性格になったのです。

「武術ほど、人の体力、知能、道徳を鍛えるものはない」
嘉納はそう確信を深めてゆきました。

文明開化以来、武術は古臭いものとして廃れていました。
かつての剣豪たちですら、撃剣試合をして観客から日銭を稼ぐ始末です。
柔術は、素晴らしい。しかし、柔術のままでは、人の心をとらえることはできないのではないか?

嘉納は悩み、ある結論に達します。

「ならば、己自身の手でまったく新しい武術を始めよう!」

そんな大志を抱き、道場を開いた嘉納。
明治15年(1882年)、下谷北稲荷永昌寺に「講道館」という名の道場を開きます。

近代柔道の幕開けです。

柔術から柔道へ――意識を改革するため、嘉納はまず段位制導を導入しました。

講道館最初の門下生は、9名。
何度か道場の移転を繰り返しながら、嘉納以下、門下生たちは熱心に稽古に励みます。次第に講道館の名は知られるようになり、入門者や試合申し込みも増えてゆきます。

そして明治19年(1886年)。




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講道館道場は、警視庁の武術大会で制覇。
そのまま警視庁に採用されることになり、その名が全国に知れ渡っていくのです。

明治22年頃に撮影された警視庁武術世話掛の写真。最前列左から2人目が、講道館四天王の一人・山下義韶/wikipediaより引用

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