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1940年東京オリンピックポスター/wikipediaより引用

いだてん特集 明治・大正・昭和時代

幻の東京五輪(1940年東京オリンピック)はナゼ開催されなかった?広がる戦火と万博&冬季五輪

更新日:

日本の近代スポーツに最も貢献した人物は誰か?

答えは【嘉納治五郎】です――と言ったら驚かれるかもしれません。

2019大河『いたてん』にも登場する嘉納は、何より【柔道の神様】として知られた存在。
その名は世界中にも轟いています。

しかし、彼の功績は柔道にとどまりません。
アジア人初のIOC委員にもなり、1912年ストックホルム五輪では日本選手団の団長として参加、さらには【幻の東京五輪】こと【1940年東京オリンピック】の招致でも多大なる貢献を果たしているのです。

そこで着目してみたいのが、その、幻と言われた東京五輪です。

日本史の授業でもあまり取り上げられることもなく、ともすれば戦火の政治外交史に埋もれがちな同イベントは、どうして開催が決まり消えてしまったのか。
前後に何があったのか?

約1世紀前の日本を振り返ってみましょう。

 

日本にも万博と五輪を

21世紀現在。
五輪開催国の立候補が激減して、将来の存続が危ぶまれている――。

そんな話を1世紀前(1900年代)の人々が聞けば、およそ信じがたいことでしょう。

当時、世界の国々にとって【五輪】と【万博】は、一流国に名乗りをあげるために欠かせないビッグイベント。
【国威発揚】なども伴った国を挙げての大事業でした。

もちろん現在でもそういう側面はあるものの、同時に開催費用が膨れ上がり過ぎたせいか、時代錯誤的なものとみなされる一面もありますね。
帝国主義時代のあだ花――と捉えられる向きもあるかもしれません。

万博こと万国博覧会の始まりは1851年(嘉永3年)、第一回ロンドン万国博覧会でした。
鉄骨とガラスで作られた巨大な「水晶宮」は、空前の繁栄を遂げるイギリスの威光を印象づけています。

水晶宮で博覧会開会を宣言するヴィクトリア女王/wikipediaより引用

日本人が万博の洗礼を受けたのは、1867年(慶応2年)のパリ万博でした。

1868年が大政奉還ですから、まさに倒幕前夜の時期ながら、徳川幕府も使節団を派遣。
菅原文太さん主演の1980大河ドラマ『獅子の時代』にも、万博訪問の様子が登場しています。

徳川慶喜の弟・徳川昭武もいた徳川使節団/wikipediaより引用

【関連記事】徳川昭武

 

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第三回ストックホルム五輪に初参加

第一回近代五輪は、万博より30年ほど後のこと。
1896年アテネオリンピックになります(明治29年)。

初期の同大会は不手際が目立ち、やっとスポーツイベントらしさが出てきたのが、1908年(明治41年)ロンドン大会、1912年(明治45年)ストックホルム大会でした。
このストックホルム大会において、日本選手団は記念すべき初出場を果たしています。

以下がその写真。

初の日本代表として五輪の旗手を務める三島弥彦(1912年)/wikipediaより引用

旗手を務めたのが短距離選手の三島弥彦で、大河ドラマ『いだてん』では生田斗真さんが演じます

【関連記事】三島弥彦

この大会には長距離ランナーの金栗四三も参加しており、こちらは中村勘九郎さんで『いだてん』に登場します。

【関連記事】金栗四三

そして両者を牽引したのが嘉納治五郎でした。

明治維新以降、近代化の道を突き進み、欧米列強に並ぶのが目標だった日本。
選手の参加にとどまらず、ここから万博と五輪の開催にこぎつけることは国を挙げての悲願とも言えました。

なお、金栗四三と並んで大河『いだてん』の主人公となる田畑政治(たばたまさじ)は、このときの五輪には参加しておりません。

彼は1932年のロサンゼルス大会から【水泳競技】の参加を目指し、日本のために尽力。
戦後は、日本初となる1964年東京オリンピックの開催に漕ぎ着けるのでした。

詳細は以下の関連記事をご覧ください。

【関連記事】田畑政治

 

招致への道のり

1894年の日清戦争に始まり、1904年の日露戦争、そして1914年の第一次世界大戦。
三度の大戦を経験しながら、万博と五輪の開催は日本にとってますます強い思いとなっていきます。

そして明治と大正を過ぎた1931年(昭和6年)、ついに東京市会において【五輪の招致】が決まりました。

世界に向けて、宣言されたのはその翌年のことです。
1932年(昭和7年)のロサンゼルス五輪と併催されたIOCロサンゼルス総会で、日本代表は招致を宣言するのでした。

立候補に名乗り出たのは
・ローマ(イタリア)
・東京
・ヘルシンキ(フィンランド)
の三都市です。

三つ巴の戦いは、ノルウェーのオスロで1935年(昭和10年)に開催されたIOC総会ローマに持ち込まれます。

実はこれに先立ち日本は、イタリア首相・ムッソリーニから「ローマは辞退する」という密約を得ていました。
これが仇となります。

「外部からの介入はいかん」
と、IOC会長のアンリ・ド・バイエ=ラトゥールに問題視されたのです。

国内では受け入れ体制を万全に整えていたにも関わらず、開催は見送り。
それでも諦めきれない日本は、バイエ=ラトゥールを日本に招致し、受け入れ体制のアピールに注力しました。

1936年(昭和11年)。
来日したバイエ=ラトゥールは、日本各地を見て回り、感銘を受けた様子でした。

IOC委員であった副島道正と、来日したアンリ・ド・バイエ=ラトゥール/wikipediaより引用

そして同年夏にIOCベルリン総会が開かれ、日本代表として演説を行なったのが他ならぬ嘉納治五郎です。
招致活動に尽力し、日本代表として演説も行い、迎えた決選投票の結果は……。

「トーキョー!」

開催地が東京に決まったことが知れ渡ると、日本中で沸き立ちました。
ついに嘉納の悲願は成就されたのです。

と、それだけではありません。
1937年(昭和12年)のIOCワルシャワ総会では、札幌冬季五輪の招致も決定。

輝かしい紀元二千六百年記念行事へ向けて、日本はこれ以上無い栄誉を勝ち取ったのです。
アスリートたちも、地元で競い合う日を楽しみにしていたことでしょう。

 

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紀元2600年記念日本万国博覧会も!

夏季と冬季五輪開催が決定した日本。
五輪招致決定前には、万博の開催にも乗り出していました。

時計の針を少々戻すこと1935年(昭和10年)、国内では「紀元2600年記念日本万国博覧会」の開催計画が動き出しました。

とはいえ、計画は割とグダグダしておりまして。
組織委員会の編成や予算確保で足踏み状態が続き、本格始動をしたのは1937年(昭和12年)のことです。

紀元2600年記念日本万国博覧会/wikipediaより引用

夏季・冬季オリンピックだけでなく、さらには万博まで一気に開催することとなった日本。

こんなことは現代では不可能ですし、当時だって前代未聞です。

芸能界からスポーツ界まで盛り上がり、世間は五輪特需にわきました。
ロゴ入り商品が飛ぶように売れ、人々は世紀の祭典を待ちわびていたのです。

五輪ロゴ入りおみやげの旗/photo by Daderot wikipediaより引用

とはいえ、これだけの大事業を一度に、しかも初めて行おうというのですから当然失敗も出てきます。

五輪ポスターではスペルミスが見つかったり。
五輪ロゴが商標登録されていたことがわかってモメたり。

東京五輪ポスターのコンペに至っては、一等賞を取った図案に神武天皇が印刷されていたことが判明して、コンペそのものがお流れになったりしました。

計画も二転三転です。
会場を作るにせよ、期日に間に合うのか、いろいろと状況が危うくなっていくのです。

さらに輪をかけて雲行きが怪しくなったのが1937年(昭和12年)。
泥沼の日中戦争が本格化するのでした。

 

揉めに揉めた総会 その帰路の船上で……

それは五輪招致が決定してから約2年後のことでした。
1938年(昭和13年)になって、IOC側が、五輪と万博の同時開催に難色を示し始めました。

過去にも1900年(明治33年)のパリ、1904年(明治37年)のセントルイスにおいて、五輪と万博のセット開催はありました。
しかし、世界的イベントの同時開催は、やっぱりムリがあり、進行はグダグダになっていたのです。

IOCとしてはその轍を踏みたくはない。

では、どうするか? と、1938年のIOCカイロ総会では東京五輪について徹底して話し合われ、悲願の日本開催が流れ……かけました。
議論は揉めに揉め、最終的にはなんとか妥協されるのです。

嘉納治五郎も、このカイロ総会に参加していたのですが、その重責たるや想像を絶するものだったのでしょう。日本への帰路、船上で亡くなってしまうのです。

日本近代スポーツ黎明期の偉人が、こんな風に亡くなるなんてあまりにも不憫なことです。
が、後の結果を考えればそれを見なかったことは不幸中の幸いだったかもしれません。

そうです。
ご存じの通り1940年東京オリンピックも万博も、夢幻の如く消えてしまうのでした。

嘉納治五郎/国立国会図書館蔵

 

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すべては夢幻と化した

五輪と万博の開催中止は、戦争の悪化が理由とされています。
しかしこうして振り返ってみると、夏季五輪・冬季五輪・万博という一大事業をセットで同年に開催するというのは、やはりムリがあったのは?と感じてしまいます。

正式決定されたのは1938年(昭和13年)7月15日。
戦局の安定まで万博が延期され、五輪については返上が決まりました。

そして日本は1941年(昭和16年)、太平洋戦争へ突入します。

数年前まで「五輪だ、万博だ」と高揚感に溢れていた国内は、終わりなき戦いにその身を投じ、本土の日常も、娯楽とは隔離された社会へ変貌を遂げていきます。

さらに1944年(昭和19年)にアメリカ軍の本土空襲が始まると、五輪や万博のために作りがけだった建造物は軒並み焼け落ちるのでした。

焼け野原となった東京市街/wikipediaより引用

五輪を目指しながらも、最盛期を戦争で逃した選手。
選手生命だけでなく命そのものを失った選手もおりました。

フィギュアスケートの天才少女選手として有名だった稲田悦子。札幌五輪が開催されていたら……/wikipediaより引用

日本が再び五輪と万博の夢を追うのは、1945年(昭和20年)に敗戦を迎えてから。
長く険しい道を乗り越え、そして、その夢が現実となるのは1964年になってからでした。

文:小檜山青

追記!

「お・も・て・な・し」で一躍話題になった五輪の招致活動。

1940年に開催を予定し、そして返上することになった「幻の東京五輪」でも、嘉納治五郎氏を中心に行われ、その際、日本をアピールするため一冊の「写真アルバム」が制作されました。

それが現代に復刻!
極東書店さんより発売されています。

『東洋のスポーツの中心地 東京-1940年幻の東京オリンピック招致アルバム―』

日本が世界の一流国に入るため。
当時の人々は、いかなる努力を注ぎ込み、いかなる技術力を構築したか。

その様子がアルバムで見れるなんて、まさに歴史のダイナミズムを実感できる場面ではないでしょうか。

IOC委員会に配布されたオリジナルに日本訳・解説を付けて復刻

“柔術は日本のオリジナルでユニークなスポーツ”、との紹介がされています

競技会場の様子を生き生きと伝えます。本書では東京の街並みや名所なども紹介され、当時の様子が分かります

資料が傷まないよう保護用の箱を付けております




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詳細は、こちらの極東書店公式サイトへ!

【参考文献】
幻の東京五輪・万博1940』夫馬信一

 



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