幻の東京五輪(1940年東京オリンピック)

幻となった1940年東京オリンピックのポスター(左)と旗を製作する業者/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

なぜ幻の東京五輪(1940年東京オリンピック)は中止に追い込まれた?

1940年(昭和15年)9月21日は【幻の東京五輪】こと【1940年東京オリンピック】が開かれる予定だった日です(10月6日まで)。

新型コロナウイルスの影響で、2020年東京五輪が2021年に変更されたのはつい最近のこと。

延期されたばかりか海外からの観客受入も見送られ、とにかく中止にならなくてよかった……と一安心ついた方も多いでしょう。

しかし、昭和初期の今日9月21日に予定していた東京五輪は中止になっています。

一体なぜそんなことが起きたのか?

そもそも、どうやって開催が決まったのか?

約1世紀前の日本を振り返ってみましょう。

 


日本にも万博と五輪を

21世紀現在。

五輪開催国の立候補が激減して、将来の存続が危ぶまれている――。

そんな話を1世紀前(1900年代)の人々が聞けば、およそ信じがたいことでしょう。

当時、世界の国々にとって【五輪】と【万博】は、一流国に名乗りをあげるために欠かせないビッグイベント。

【国威発揚】なども伴った国を挙げての大事業でした。

もちろん現在でもそういう側面はあるものの、同時に開催費用が膨れ上がり過ぎたせいか、時代錯誤的なものとみなされる一面もありますね。

帝国主義時代のあだ花――と捉えられる向きもあるかもしれません。

万博こと万国博覧会の始まりは1851年(嘉永3年)、第一回ロンドン万国博覧会でした。

鉄骨とガラスで作られた巨大な「水晶宮」は、空前の繁栄を遂げるイギリスの威光を印象づけています。

水晶宮で博覧会開会を宣言するヴィクトリア女王/wikipediaより引用

日本人が万博の洗礼を受けたのは、1867年(慶応2年)のパリ万博でした。

1868年が大政奉還ですから、まさに倒幕前夜の時期ながら、徳川幕府も使節団を派遣。

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菅原文太さん主演の1980大河ドラマ『獅子の時代』にも、万博訪問の様子が登場しています。

徳川慶喜の弟・徳川昭武もいた徳川使節団/wikipediaより引用

 


第三回ストックホルム五輪に初参加

第一回近代五輪は、万博より30年ほど後のこと。1896年(明治29年)アテネオリンピックになります。

初期の同大会は不手際が目立ち、やっとスポーツイベントらしさが出てきたのが、1908年(明治41年)ロンドン大会、1912年(明治45年)ストックホルム大会でした。

このストックホルム大会において、日本選手団は記念すべき初出場を果たしています。

以下がその写真。

初の日本代表として五輪の旗手を務める三島弥彦(1912年)/wikipediaより引用

旗手を務めたのが短距離選手の三島弥彦で、大河ドラマ『いだてん』では生田斗真さんが演じました。

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この大会には長距離ランナーの金栗四三も参加しており、こちらは中村勘九郎さんが演じておりました。

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そして両者を牽引したのが嘉納治五郎でした。

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明治維新以降、近代化の道を突き進み、欧米列強に並ぶのが目標だった日本。選手の参加にとどまらず、ここから万博と五輪の開催にこぎつけることは国を挙げての悲願とも言えました。

なお、金栗四三と並んで大河『いだてん』の主人公であった田畑政治(たばたまさじ)は、このときの五輪には参加しておりません。

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彼は1932年のロサンゼルス大会から【水泳競技】の参加を目指し、日本のために尽力。

戦後は、日本初となる1964年東京オリンピックの開催に漕ぎ着けるのでした。

 


招致への道のり

1894年(明治27年)の日清戦争に始まり、1904年(明治37年)の日露戦争、そして1914年(大正3年)の第一次世界大戦。

三度の大戦を経験しながら、万博と五輪の開催は日本にとってますます強い思いとなっていきます。

そして明治と大正を過ぎた1931年(昭和6年)、ついに東京市会において【五輪の招致】が決まりました。

世界に向けて、宣言されたのはその翌年のことです。

1932年(昭和7年)のロサンゼルス五輪と併催されたIOCロサンゼルス総会で、日本代表は招致を宣言するのでした。

立候補に名乗り出たのは

・ローマ(イタリア)
・東京
・ヘルシンキ(フィンランド)

の三都市です。

三つ巴の戦いは、ノルウェーのオスロで1935年(昭和10年)に開催されたIOC総会ローマに持ち込まれます。

実はこれに先立ち日本は、イタリア首相・ムッソリーニから「ローマは辞退する」という密約を得ていました。

これが仇となります。

「外部からの介入はいかん」と、IOC会長のアンリ・ド・バイエ=ラトゥールに問題視されたのです。

国内では受け入れ体制を万全に整えていたにも関わらず、開催は見送り。それでも諦めきれない日本は、バイエ=ラトゥールを日本に招致し、受け入れ体制のアピールに注力しました。

1936年(昭和11年)。

来日したバイエ=ラトゥールは、日本各地を見て回り、感銘を受けた様子でした。

IOC委員であった副島道正と、来日したアンリ・ド・バイエ=ラトゥール/wikipediaより引用

そして同年夏にIOCベルリン総会が開かれ、日本代表として演説を行なったのが他ならぬ嘉納治五郎です。

招致活動に尽力し、日本代表として演説も行い、迎えた決選投票の結果は……。

「トーキョー!」

開催地が東京に決まったことが知れ渡ると、日本中で沸き立ちました。

ついに嘉納の悲願は成就されたのです。

と、それだけではありません。

1937年(昭和12年)のIOCワルシャワ総会では、札幌冬季五輪の招致も決定。

輝かしい紀元二千六百年記念行事へ向けて、日本はこれ以上無い栄誉を勝ち取ったのです。

アスリートたちも、地元で競い合う日を楽しみにしていたことでしょう。

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