そこで92年ぶりにメダルを取ったとして、一躍、注目されている種目があります。
馬術です。
以下は読売新聞の記事ですが、そこに記されている「バロン西」こそ、馬術で初めて金メダルを取った日本人。
◆初老ジャパンが「バロン西」以来馬術92年ぶりメダル…「馬の状態不良」で競技前に減点なんの(→link)
その本名は西竹一(たけいち)といい、馬を愛し、馬に愛された金メダリストは昭和20年(1945年)3月22日に42歳で亡くなりました。
42歳の若さで亡くなったのは、戦地に出向いていたからです。
バロン西と呼ばれ、世界の社交界でも愛されたその人柄はメダリストに相応しく、そしてその最期はあまりにも悲劇的だった……西竹一の生涯を振り返ってみましょう。
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庶子から男爵家後継者に
男爵の西家――。
そのルーツをたどると、薩摩藩に至ります。
弘化4年(1847年)、西徳二郎は薩摩藩の下級藩士として生まれました。
明治維新後、薩摩出身の若者は多数留学することとなります。
徳二郎も、明治3年(1870年)、日本を離れました。
留学先で遊び惚けてしまい、帰国をする羽目になる若者も多い中、徳二郎は違いました。彼はロシア・ペテルブルク大学で真面目に学んだのです。
勉学だけではなく、ピアノや洋画も身につけた才人でした。
薩摩閥の外交官として、ロシア対策が重視される中、徳二郎は順調に出世を遂げ、男爵位も授けられます。外交官として立ち回りも巧みであり、巨万の富を蓄えることにも成功しています。
順調な生涯を送っていた徳二郎ですが、望んでも手に入らないものがありました。
それは、男爵の位を継ぐことになる嫡男です。
一人目の妻・恵多は長男・佐一を産むものの、夭折。
そのあと妊娠したものの、流産し妻までも亡くしてしまいました。
二人目の妻・峰が産んだ二男・幸熊は、14歳で他界。
峰との間には女児しかおりませんでした。
西家に仕えていた女中で、実家に戻された者がおりました。
彼女はそのとき、徳二郎との間の子を妊娠していたのです。
明治35年(1902年)、出産を控えた彼女は、夏に生まれる予定の子を、一人で育てる決意を固めておりました。
しかし、このことを聞きつけた徳二郎はそうはさせません。母子ごと引き取ったのでした。出産後、母だけが実家に戻されたのです。
このとき徳二郎は56歳。
再度男児を得る可能性は低いと悟っていたのでしょう。
徳二郎は、峰との間に生まれた三男として、この男児を扱うことにしたのです。
竹のようにすくすく真っ直ぐに育って欲しいという願いと、長男として扱う思いを込め、男児は「竹一」と名付けられました。
このとき、峰は身籠もっていました。
もしその子が男児であれば、庶子である竹一を逆転できるはずでした。
しかし生まれてきたのは、女児であったのです。
こうした複雑な事情の中、庶子である男児が男爵家の後継者となったのでした。
竹一が満十歳の時、父が死去。
幼い身ながら、伯爵家を背負って立つ身となったのです。
長者番付にもランクインするほどの財産、広々とした屋敷、別荘。そんなものが少年のものとなったのです。
西は金銭感覚が常人離れしたところがあり、パーッと惜しみなく使う性質でした。
硫黄島にまで大金を持ち込み、一体それをどうするつもりかと問われると、俺にもわからないと答えたそうです。大金を持ち歩く習慣が身についていたのでしょう。
男爵となった西は、重圧もものともしない、やんちゃ坊主でした。
その一方で、義母の冷たい目線もあったせいか、明るいようでどこか孤独で、一人で遊ぶことに熱中する性質も持ち合わせていたのです。
15歳のとき、異母姉が結婚し、義母も亡くなります。
男爵家に一人だけ、西は残されたのです。家庭というものがどんなものかすらわからない、そんな少年でした。
生んだきり我が子と会うことのなかった彼の実母は、我が子に手紙を書き続けました。
27歳のとき、西は、実母と再会を果たします。
しかし、西は涙すら流れて来ません。
どうにも目の前の人が実の母だという気持ちがわかず、再会は一度きりのものとなりました。
馬との出会い
外交官の父のもと誕生した西は、父と同じ道に進むものと思われておりました。
学習院幼稚園、学習院初等科へと進学。
大正4年(1915年)には、父と同じ道を歩むべく、現・日比谷高校に入学したのです。
それが大正6年(1917年)、広島陸軍地方幼年学校へと進むことになるのです。
西の脳裏には、学習院院長であった乃木希典の教えがありました。
乃木は、華族の子弟は軍人になるべきだと教え諭していたのです。周囲から止められても、西は乃木先生の言葉だから軍人になると、聞き入れなかったのです。
かくして西は、同郷の陸軍元帥・上原勇作の推薦した広島陸軍地方幼年学校に入学しました。
西は天才肌で勉強しなくとも成績優秀。外交官の父ゆずりの社交性もありました。
しかしどこか孤独で、それでいてそのことを口には出来ないのです。
感情がたかぶると、まず手が出てしまう。そんな少年でした。
カメラ、空気銃、オートバイ。
一人で楽しむ趣味に、西は没頭しました。
カメラは自宅に暗室まで作ったほどであるとか。外交官の子らしい社交性だけではなく、孤独を好む本質が彼にはあったのです。
そんな彼は、乗馬と運命的な出会いを果たします。
幼年士官学校三年生の時、馬の写真を撮影しているうちに、どうしても乗ってみたくなったのです。
竹下範国陸軍少佐の元にいる馬に乗せて欲しいと、頼みこんだのでした。
しかし、馬というものは難しいもの。
乗り手が下手だとわかると、振り落としてしまいます。
それでも西は、ある日どうにかして乗ってしまったのです。
馬は駆け出し、彼は落馬してしまいます。しかも、陸軍士官学校から支給されていた短剣までねじ曲がってしまったのです。
これはもう、学校に届け出る他ありませんでした。
しかし、処罰はされません。
むしろ軍人として乗馬を学ぶことは結構なことだと、乗馬訓練の許可を得たのです。
人馬一体への道は、こうして始まりました。
やんちゃな士官学校時代
大正10年(1921年)、陸軍予科士官学校第36期生に入学します。
西は学問に励むだけではなく、遊ぶことも多い青年でした。
週末は新橋で大酒を飲み歩く、そんな姿がよく見られました。寄った勢いでヤクザ者と喧嘩になることもあったのだとか。
その年の夏、西は鎌倉の別荘でとある女性を見かけます。
川村伯爵家の令嬢である三姉妹のひとり、武子に恋心を抱いたのです。
とはいえ、相手もご令嬢です。
好意があろうと、先へは進むことがなかなか出来ません。
そうした恋が叶わぬ反動か、西はアメリカ製自動車「リバティー」を手に入れて走らせておりました。
あまりのスピード走行に警察も手を焼いて目を光らせます。
そこで西は、対策を練りました。麻生警察署の宿舎を警察にポンと寄付してしまったのです。
これ以降、六本木に逃げ込むと警察に追われなくなってしまったのでした。
西は予科士官学校卒業時、兵科を選択することとなります。
西は騎兵を選びます。
旧陸軍では「歩工砲騎」と言われていて、序列として騎兵が最下等という暗黙の了解がありました。
それでも西は、騎兵を選んだのです。騎兵第一連隊付生徒となった西は、思う存分乗馬が出来るようになりました。
西は、昼食の時以外は常に馬に乗っているかのような、熱中ぶりを見せたのです。
士官候補生扱いのため学校には閉じこもりきりで、たまに彼が見せる外界への関心といえば、川村武子への恋心くらいでした。自慢の「リバティー」に三姉妹を乗せ、ドライブすることもあったとか。
士官学校を出たら、川村武子と結婚するのだと西は決意を固めました。
周囲も、大酒飲みでやんちゃな西の素行をおさえるためにも、それがよいと判断したのです。
いくつかの障害はあったものの、大正13年(1924年)の卒業後、彼は婚約したのです。
卒業後、騎兵第一連隊に入った西は、結婚準備に奔走します。同年22歳で少尉となった西は、19歳の武子と結婚を果たしたのでした。
この新婚初日、西はこう言い新妻を唖然とさせております。
「さあ、晩飯だ。新橋に食べに行こう」
家庭がどんなものか知らぬ西は、家庭内で食事をすることがわかっていなかったのです。
自宅に芸者を呼んで武子とともにかくれんぼ遊びをすることもある、そんなどこか子供のような無邪気さがある青年でした。
西の私生活は華やかでした。
英会話が得意である西は、社交界でも外国人とスマートにつきあうことができました。
結婚して落ち着くどころか、新妻を残し、華やかなパーティに向かってしまう。
新橋から美人芸者を10人ほど呼んで大騒ぎをして、しかもそこへ妻にも顔を出させたこともあったほど。
どこかさっぱりとしていて、裏表がなく、派手な遊び方をする性格であったのです。
そんな夫です。妻は夫の金遣いの荒さに困ったこともあったとか。
残された西の妻宛の手紙には、モテ自慢をしているものも見られます。武子もこれには、苦笑したことでしょう。
この二人の夫婦仲は、悪かったわけではありません。
昭和2年(1927年)、西夫妻には長男・泰徳が誕生しています。
夫妻はこのほかに二女がおります。一男二女に恵まれたのです。
西はかんしゃくがあったのか、武子に対して怒鳴ることもありましたが、さっぱりとしていてあとには引きずりません。
心の通じ合う夫婦でした。
子供たちも父によくなつき、慕っていたようです。
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