金田一京助(左)と石川啄木/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

金田一京助とは?コツコツと地味な作業で国語辞典の編纂やアイヌ語の謎を解明

明治十五年(1882年)5月5日は、国語辞典の編纂者として有名になる金田一京助の誕生日です。

「じっちゃんの名にかけて!」という台詞で有名なあのマンガだったり、探偵小説(金田一耕介)を連想する方も多そうですね。

しかし、実際の金田一はそうした派手で物騒な事件とは関係なく、むしろ地味な作業をコツコツと続けた人でした。

 


十一人兄弟の長男だった

金田一について幼少期のことはあまりはっきりわかっておりません。
実家が盛岡で旅館を経営していたこともあり、義務教育や高等教育を受ける程度の余裕はあったようです。

が、この時代というと日清戦争・日露戦争やら、関東大震災やらで天災人災が集中していた頃ですから、豊かだったともいいきれないようで。
十一人兄弟(!)の長男だったため、弟や妹達のことを考えて質素にしていたのかもしれません。

それでも東京帝国大学(現在の東大)に入っているので、苦難の多さに負けず勉学に励んでいたと思われます。

大学では言語学科を選択し、同期が一人もいなかったとか。
合格した人がいなかったのか、志望した人がいなかったからなのか。

 


どの研究者も手をつけていないアイヌの言葉を調査

まあそれはともかく、金田一は浮かれることなく勉学に励み続けました。
そしてあるとき、教授からこんな話を聞きます。

「最近は琉球や大陸の言葉を学ぶヤツはいるが、アイヌの言葉をやろうとするヤツが誰もいない。日本にしかいない民族なのだから、日本人の学者がやるべきなのに嘆かわしいことだ」

この言葉は、金田一の心に深く残りました。
そして大学を卒業した後、自ら樺太(サハリン)に渡り、アイヌの人々から直接アイヌ語や文化について聞き取り調査を始めます。

その後、東京でもアイヌの人に出会ったり、その人の紹介でアイヌの叙事詩(神話や英雄伝説、民族性などを元にした長い物語)である「ユーカラ」を教えてもらったりと、いろいろな方法で調査を進めました。

しかし、当時はアイヌのことを知っている人どころか、「野蛮人」と見なしていた人も珍しくなかった時代です。
当然のことながらロクに会話をしたことがある人もおらず、言語学の調査では「いろはのい」にあたる、「ここはどこ?」という一言すらアイヌ語で何と言うのかが知られていませんでした。

勧めた教授も入り口ぐらい作っておいてくれればいいのに(´・ω・`)

 


「これは何?」という言葉を知るために

そこで金田一は、わざとわけのわからない絵を描いてアイヌの子供達に見せます。
「何?」という一つの単語を引き出し、そこからさまざまな言い回しをひとつひとつ聞き取っていったのです。

「狙った言葉を引き出す」というのは並大抵の発想でできるものではありません。
しかもこの場合は尋問や裁判ではなく学術研究のためですから、よほど相手の文化に敬意と興味を持っていなければできないですよね。

事実、金田一は「アイヌは偉大な民族だ」としばしば口にしており、心から尊敬するが故にその文化にも興味を持ったのでしょう。

その念が通じ、やがて金田一はアイヌ語の辞書を作れるほどの語数を聞き取ることに成功しました。
もちろん、ユーカラについても研究書をまとめています。

中には、「新井白石が『アイヌの神・オキクルミは源義経のことである』と書いているが、本当か?」という質問をした際、「あれは内地の人が喜ぶからそういう話にしただけ。ちょっとした冗談だったのに、信じ込む人が多くて困ってるよ」と返されたりもしたとか。

うーん、洒落っ気がありますねw

 

予定を大幅オーバー! 昭和天皇に2時間にわたって力説

そんなこんなで金田一はアイヌ文化についての知識を深めていく一方で「他の人と全く違う学問をやっていると、みんなから取り残されてしまうのではないかと考えたこともある」ようで。
この辺は何かの第一人者には度々つきまとうジレンマでしょうね。

そのためか、「金田一はアイヌを愛してなどいなかった」「亡くなったときもアイヌの人々から惜しまれたことなどない」とする人もいると同時に真逆のエピソードもあります。

それは、昭和天皇へご進講(天皇や皇族など、身分の高い方にする講義のこと)をしたときのエピソードです。

予め「持ち時間は15分です」と言われていたにもかかわらず、金田一は熱が入るあまりになんと2時間も話し続けたといいます。

よくお側の人につまみ出されなかったものですが、昭和天皇は皇太子時代に北海道でアイヌの人々とお会いになったことがあるので、密かにご興味を持ち続けていらしたのかもしれません。

もし金田一がアイヌのことをバカにし続けていたとしたら、そんなに話せませんよね
それを予定の8倍もの長さになるほど話し続けたのは、当初はどうあれ、アイヌに対する愛着があったからはないでしょうか。

 


自身が手がけた辞書は一つもない!?

金田一はこの大失敗を深く恥じましたが、昭和天皇から後日茶会に招待されます。
そこで昭和天皇に「この間の話は面白かったよ」と咎めるどころかお褒めの言葉をかけられ、「恐れ入りました」と言ったきり、涙で言葉も出せなかったそうです。

金田一京助/wikipediaより引用

昭和天皇は大変記憶力の良い方でしたので、おそらくこの件をずっと覚えていらしたのでしょう。
金田一が亡くなった際、天皇の御名前で祭祀料が送られたそうです。

かつて朝敵扱いだった山岡鉄舟をお側役にした明治天皇といい、キャラメル箱の南方熊楠に寛大だった昭和天皇といい、お心の広さがしみわたりますね。

そうそう、金田一京助といえば各社の辞書の編纂者としても有名ですが、実は本人が手がけたものは一つもないそうです。

在学中の後輩のために名前を貸したのが始まりで、その後も出版社に「お願いします」と言われるたびに断れず、名義だけが一人歩きするような状態になったのだとか。
いいんでしょうか、そんなにホイホイ貸しちまって。

まぁ、今のところ大した問題は起きていないようですし、人助けの一環ですから本人的にはおkなんですかねー。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
金田一京助/wikipedia


 



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