能力に限った話ではなく、家庭やプライベートでの充実度なども含めれば、もっと意味が広くなる。
昭和二十七年(1952年)10月19日に亡くなった、作詞家・翻訳家の土井晩翠(どいばんすい)も公私によって幸不幸が分かれていた人です。
滝廉太郎の「荒城の月」や各所の校歌を作詞したとして有名な人ですね。
作家を含めた芸術家には公私共に波乱万丈な一生を送った人が多いですが、この人の場合少なくとも「公」については順風満帆だったといっていいでしょう。
なぜ順風満帆と言えるのか。
それは作詞や翻訳、ひっくるめて言えば文学に関してつまづいたことがないのです。
土井晩翠の生まれは裕福、東大進学、ご留学…
土井は明治四年(1871年)、裕福な質屋の家に生まれました。
当初は「文学などいらん!」という祖父の考えで高等教育を受けられませんでしたが、許可が出るとトントン拍子に帝国大学(東大の前身)へ入学。
英語・フランス語・ドイツ語・イタリア語・ギリシア語・ラテン語という六ヶ国語を学ぶ一方で、在学中から既に詩の投稿を始めて少しずつ名を知られるようになっていきました。
卒業後は、郁文館中学で翻訳を手がけながら個人の詩集も出し、文人として順調に活動を続けていきます。
歌詞を書くようになったのもこの頃で、「荒城の月」も東京音楽学校(東京芸術大学の前身)に依頼されて作詞したものでした。
明治三十三年(1900年)には仙台の母校・第二高等学校の教授として帰郷しますが、なぜか翌年には一度退職してヨーロッパへ遊学しに行っています。
なぜ郁文館を辞めてすぐに行かなかったんだろう……。
身内の不幸などもないようですし、一年の間にツテができたのか、はたまた別の理由があったのか。
滝廉太郎と偶然の最初で最後の出会い
この遊学は四年間に及び、ロンドン大学(イギリス)・ソルボンヌ大学(フランス)・ライプツィヒ大学(ドイツ)の三つの大学でそれぞれ現地語の文学を学んでいたそうです。
現代でも、名作でありながら邦訳されていない本はたくさんありますし、明治時代となればさらに乏しかったでしょうから、納得できますね。
そして、この間、偶然乗り合わせた船で「荒城の月」の作曲者・滝廉太郎と初めて会っています。
前々から約束していたというわけではなく、同じく留学中だった滝が、病気のため帰国することになったときの船が、たまたま土井がいたロンドンに寄港したため、お見舞いに行ったのだとか。
特に何を話したということは伝わっていません。
なので、ごくごく普通のお見舞いだったのでしょう。
残念なことに、滝は帰国後回復することなく亡くなったため、これが最初で最後の対面でした。
帰国後の土井は、再び二高の教授となり、作詞や翻訳活動を再開します。
二高には昭和九年(1934年)まで勤め、その後はやはり仙台で暮らしていました。
昭和に入り、妻と子ども全員に先立たれる
……とまあ、ここまでは実に穏やかな人生でした。
が、昭和年間に入ってからの生涯は決して明るくはありません。
話が前後しますけども、昭和七年(1932年)に長女が亡くなって以降、妻と子供全員に先立たれているのです。
さすがに孫世代は例外でしたが、一番共に過ごした期間が長かったであろう近しい家族の死が大きな衝撃になったことは想像に難くありません。
戦中には仙台空襲で家も蔵書も失っていますし、それでいて自身は長らえるというのはどんな気分だったのでしょう……。
終の棲家となった仙台の家は、現在”晩翠草堂(→link)として公開されています。
そこに植えられたヒイラギモクセイという木は、空襲から奇跡的に蘇生したものなのだとか。
毎年土井の命日である19日付近に咲くそうですので、今年も咲いているんでしょうか。
もともと10月に花期を迎える木らしいのですけども、何だか胸に詰まるものがありますね。
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
土井晩翠/wikipedia
滝廉太郎/wikipedia