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【二・二六事件と五・一五事件】
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二・二六事件「君側の奸」を排除すべし
昭和十年代、この頃、陸軍内では派閥争いが起きていました。
この派閥が二・二六事件の原因となり、以下の通りです。
・統制派(陸軍大学校出身のエリートら)
・皇道派(若手将校らを中心とした過激グループ)
統制派としては、皇道派が勝手に派閥を組んでるだけで自分たちはそんな意志はない――という主張もありますが、ともかく事件は皇道派を中心に進んでいきます。
彼らの主張はこんな感じです。
・政官財界の汚職を正すべし
・労働者の困窮を改善すべし
※特に東北農村部の不況対策
・政党政治の打破
・資本家の横暴を許すべからず
中でも大きな主張だったのが
・天皇陛下の「君側の奸」を排除すべし(天皇親政を推し進めるべし)
というものでした。
簡単に言うと、こうなります。
「いつまでたっても市民の生活が良くならないのは、政治家と金持ちが自分のことしか考えていないからだ! きっと陛下のお側にワルモノがいて、陛下のお慈悲が下々に伝わっていないに違いない!」
そしてその主張はいよいよ実行されることになるのでした。
1,500名らのメンバーが実行へ
二・二六事件の始まり、1936年2月26日――当日、行動に移したメンバーは以下の通りです。
・将校20名
・元将校2名
・准士官1名
・下士官88名
・兵1357名
ざっと見積もって1,500名ほど。
彼等は、総理大臣の岡田啓介(無事)や蔵相・高橋是清(死亡)、内大臣の斎藤実(死亡)らを襲撃すると、政治や軍の中心地となる永田町や三宅坂一帯を占拠し、クーデターへと邁進します。
肝心の天皇陛下は、どう思われたか?
これが大きな問題で、天皇は実行犯に対して激怒し、
「朕(ちん・天子の一人称)が股肱の老臣を殺戮する者に許しは必要ない! 朕自ら近衛師団を率いて鎮圧に当たる!」(口語訳)
と憤っていたと伝わります。
そうです。
事件を起こした部隊が「君側の奸」として襲った人物は、天皇陛下が最も信頼していた人物でした。それが殺されて許されるはずがありません。
立憲君主の大原則である「君臨すれども統治せず(=政治に口出ししない)」を貫いていた昭和天皇が、初めて自らの考えをはっきり表した発言でした。
これにより昭和天皇の意向を理解した陸軍や警察は、襲撃犯一派を反乱軍として扱い、戒厳令を敷いた上で鎮圧に当たることを決定。
天皇親政を掲げてコトを起こしながら、その天皇に否定される――二・二六事件の実行部隊に拠り所はありませんでした。
日中戦争の勃発など戦火の拡大に
もちろん問答無用で鎮圧すれば被害は拡大するばかり。
各上官が説得に当たったりラジオで投降を呼びかけたり、剛柔両面からの解決を図っています。
例えば「兵(上等兵・一等兵・二等兵)は原則として全員無罪」とし、主に将校らに責任を負わせることになります。
二・二六事件が解決したのは発生から一週間後後、3月4日のことでした。
首謀者たちは拳銃自殺した者、逮捕され裁かれた者・数十名が有罪となり、それぞれ違った結末をたどっています。
兵卒の多くは元いた部隊に戻りましたが、参加しなかった上官から絞られた人もいたとか。
戒厳令は、実行犯たちが処刑される数日後の7月18日まで続きました。
事件としては一応終わったものの、二・二六事件は実行犯達も予測していなかったであろう悪影響を残します。
まず皇道派の軍人たちの多くが左遷となり、主流である統制派が実権を掌握。
政治的な発言力も増していき、それが日中戦争の勃発など戦火の拡大に繋がったとされます。
そして敗戦のその日まで色濃く影響を残したと言いますから、二・二六事件と五・一五事件に直接的な因果関係はありませんが、日本の行く末を決めるやはり大きな契機となったと言えるでしょう。
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
五・一五事件/wikipedia
二・二六事件/wikipedia