昭和五年(1930年)3月10日は『私と小鳥と鈴と』などで有名な詩人・金子みすゞが亡くなった日です。
若くしてこの世を去ったことは比較的有名ですが、その理由が自殺であったということは、意外とご存じない方が多いのではないでしょうか。
今と比べて平均寿命も栄養状態も悪かった時代、本来ならば育ち上がるまで成長できただけでも御の字だったはず。
そうしたご時世の頃に、彼女はなぜ自ら死を選んだのか。
その生涯を追いかけながら考えてみましょう。
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西條八十の童謡に感銘を受けて作詩の道へ
金子みすゞの本名はテルといい、現在の山口県長門市で生まれました。
お父さんは清(当時の中国)で本屋さんの支店長職に就いていましたが、彼女が3歳のときに現地で亡くなっています。
元々、この本屋さんは下関に本店のある「上山文英堂」で、みすゞの叔母(母の妹)・フジの嫁ぎ先でもありました。
そして父の死後、みすゞの弟・正祐が上山家に養子入りしたことで、金子家は地元で金子文英堂という本屋さんを営むことになります。
みすゞの母・ミチは和裁でも収入を得て、一家の生活を支えていたとか。
大正五年(1916年)、みすゞは瀬戸崎尋常小学校を首席で卒業し、大津郡立大津高等女学校に入学。
この在学中に同校同窓会誌『ミサオ』に文章を発表し始めました。
西條八十(さいじょう やそ)の童謡に感銘を受け
「私も書いてみたい!」
と思ったのが詩作のキッカケだったようです。
この時代には娯楽雑誌が数多く出版されており、身分の上下を問わず“読む娯楽”が広まり始めていました。
みすゞも、実家の本屋なり、友人たちとの会話なりで、そうした雑誌に触れ、いつしか詩心を育てていたのでしょう。
一方で複雑な家庭環境は続いています。
どうやら上山家との縁を保ち続けることが金子家の人々にとって生きる術だったらしく、フジが亡くなった後、その夫だった上山松蔵のもとにミチが嫁いでいます。
大正八年(1919年)のことでした。
また、ほぼ同時期に世間では第一次世界大戦が始まり、大正七年(1918年)に大流行したA型インフルエンザ(通称・スペイン風邪)によって収束へ向かいました。
日本でもおよそ2380万人が罹患し、38万人もの死者が出ています。
みすゞの周辺までスペイン風邪がやってきていたかどうかはわかりませんが、おそらく報道によって戦争や病気のことを伝え聞き、無情に訪れる”死”について思いを馳せることもあったかもしれません。
後年、彼女の詩に魚や鯨の視点で書かれたものが多いことからすると、漁や捕鯨とも結びつきますね。
信濃の国にかかる枕詞「みすずかる」
こうして金子家は祖母・ウメ、みすゞの兄・堅助、金子みすゞの3人となりました。
兄は既に18歳になっていて、母に代わって書店をやりくりできるようになっていたことも、ミチが再婚を決めた理由の一つだったでしょう。
みすゞは翌大正九年(1920年)、女学校を卒業するまでは祖母の元で暮らし、大正十二年(1923年)あたりからは下関へ移り、母の再婚先である上山文英堂を手伝うようになりました。
兄が結婚して兄嫁が来たので、子供が生まれる前に家を出たようで。
上山家でのみすゞは、ミチの娘ではなく一従業員として扱われました。
これはイジめられていたとかそういうわけではなく、弟・正祐が物心付く前に養子入りしたため実の姉弟であることを知らず、混乱を防ぐ目的だったと思われます。
みすゞは下関の商品館で上山文英堂の売り場を任され、商売の工夫をしながら様々な本や雑誌、そして国内外の詩に触れていきました。
当時、上山文英堂では西洋の詩集も扱っていたため、気軽に手が届いたようです。
内容を知らなければお客さんに勧められませんしね。
みすゞは上山文英堂を手伝い始めてから詩才が開花し、兄・堅助、弟・正祐とも文学について語り合うようになっていきました。
前述の通り、金子家は相次ぐ親族の死去や再婚などによって複雑な状況でしたが、離れて暮らすようになってからも、きょうだいの関係は良好だったのでしょう。
母や祖母とのトラブルもなかったようです。
また、この頃から「みすゞ」というペンネームを使って雑誌へ詩の投稿を始めています。
信濃の国にかかる枕詞「みすずかる」からとったのだそうで。
”み”は接頭語の”御”、”すず”は信濃に多く生えている篠竹(すずたけ)、”かる”は”刈る”を意味します。
余談ですが、信濃=長野県には同じ読みの美鈴湖という人工池があります。江戸時代から存在していたものの、この名がついたのは昭和二十六年(1951年)のことだとか。
こちらの池の名も御篠(みすず)から取ったそうですが、もしかするとこの名を選んだ人は金子みすゞのことを知っていたんでしょうかね?
みすゞの詩集が出たのは1984年以降なので、可能性としてはかなり低いですが。
デビュー時から西條八十の目に留まっていた
雑誌に投稿した詩は好評を呼び、大正十二年(1923年)8月には様々な雑誌に金子みすゞの作品が掲載されるようになります。
『金の星』に「八百屋のお鳩」
『婦人画報』に「おとむらひ」
『婦人倶楽部』に「芝居小屋」
『童話』に「お魚」「打出の小槌」
このうち婦人画報・婦人倶楽部・童話に掲載されたものは西條八十選となっており、みすゞのデビュー時から彼の目に留まっていたことがわかります。
特に『童話』誌上では八十から高評価を受けたため、みすゞはその返事を編集部に送り、それがまた同誌に載りました。
しかしそれから一ヶ月もしないうちに関東では大震災が起き、出版社や印刷所も大きな被害を受てしまいます。
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さらに大正十三年(1924年)に八十がソルボンヌ大学へ留学するために渡仏し、みすゞの作品掲載は減少してしまいます。
この時代のことですので、おそらくは女性だったということも影響したでしょう。
そこでみすゞは八十に頼り切らず、気持ちを切り替えて活動を続けます。
雑誌『赤い鳥』へ投稿したり。
同時代の詩人・佐藤義美らが主催した同人誌『曼珠沙華』に参加したり。
同時代詩人の自筆アンソロジーを作ったり。
積極的に文学活動を続けましたが、同時期に認められていた他の詩人たちが詩集を出版し始めても、みすゞにはその手の話が来ませんでした。
出版社側の理解者や後援者が少なかったためでしょうかね……。
そして大正十五年(1926年)には自筆の童謡集『美しい町』『空のかあさま』を完成させています。
しかし、彼女の運命が変わったのもこの年からでした。
結婚相手がどうしようもない男だったのです。
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