5代目古今亭志ん生

左右いずれも5代目古今亭志ん生/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

落語の天才・5代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵)83年のパンクな生涯

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遅咲きの花がついに咲く

前座としてボロボロの格好で出て、辛気くさい顔をしている。

そのくせ話を聞いてみると、滅法うまい――。

通(つう)の間で、そんな落語家がいると話題になっていた志ん生。

精進の甲斐があってか、ようやく実力が認められるようになりました。

昭和7年(1932年):3代目古今亭志ん馬と名乗る(二度目)

昭和9年(1934年):7代目金原亭馬生、襲名

昭和13年(1938年):次男・強次誕生

昭和14年(1939年):5代目古今亭志ん生、襲名

ここでようやく、16回におよぶ改名も終わります(ただし17回説もございます)。

独演会をできるほどの人気も得たのは、実に50才手前。

ようやく遅咲きの花が開いたのです。

しかし、生活が安定するのはまだ先のこと。

明るかった時代は終わり、日本は次第に戦争へ向けて、突き進んでいくのでした。

『アサヒグラフ』1949年1月12日号に掲載された古今亭志ん生/wikipediaより引用

 

敗戦混沌の満州、ウオッカで死のうする

戦争が激しくなると、日本の落語会は上から言われるまでもなく、自粛の道を歩み始めます。

この状況を、志ん生はこう嘆いていたそうです。

「便乗落語しかやれなくなったら、俺ぁ噺家なんざやめちまうよ」

落語関係者も出征し、寄席が空襲で焼かれる中。

次のような統制を受けながら、志ん生も戦地を歩みます。

昭和16年(1941年):落語禁止演目の墓碑「はなし塚」、建立。情痴・遊郭・不義密通をあつかった演目が禁止となる

昭和20年(1945年):空襲で罹災。満州演芸協会の仕事を請け負い、慰問芸人として満州に渡る。その直後、敗戦

昭和22年(1947年):帰国

満州の撮影所(満洲映画協会)/wikipediaより引用

満州に渡るや、すぐさま終戦の混乱に巻き込まれてしまいました。

慰問を終えて大連にたどり着くと、それからたった2日後には敗戦だったのです。

人々は天皇の写真を燃やしながら、「我々が不甲斐ないばかりに戦争に負けてしまった!」と悔しがり泣いています。

「ううっ、泣いてばかりいてもどうにもならん。師匠、一席やってください」

志ん生はそう頼まれたものの、こんな時は流石にできません。断りました。

どうしたものか。志ん生は悩みました。

彼の手元には、もらい物のウオッカが10本ありました。

「こうなっちまっては生きていても仕方ねえ。かといって腹を切るのも痛そうだ。この酒は強いっていうから、たくさん飲めば心臓が破裂して死ねるにちげえねえ」

志ん生はウオッカ5本をがぶ飲みし、これで死ねると眠りに落ちます。

が、死ねるわけでもなく。

真夜中、むくっと起き上がったのでした。

「なかなか死ねないもんだねえ。こんなんなら、ちびちび飲めばよかった」

さあどうするか?

同じ落語家の6代目三遊亭圓生(さんゆうていえんしょう)と共に、大連に留まるほかありません。

外に出ればソ連兵が銃を持ってうろついているような状況。

どうにか生き抜くほかない状況です。

しかし志ん生は、夏服しか持ち合わせておらず、酷寒の冬は苦労しました。

ネズミのすみかのような家を転々とし、極貧生活を耐え忍ぶ。

ちなみに圓生は一足先に志ん生を置いて帰国してしまい、恨まれたそうです。

昭和22年(1947年)、げっそりと痩せこけて、やっとの思いで志ん生は帰国。

戻ったところ、妻は幽霊を見たような顔をしました。

何でも易者が、旦那さんは死んでいますよ、と占っていたそうです。

 

ラジオ出演で懐具合も好転

戦後、落語家を取り巻く環境は好転しました。

志ん生帰国から二年後の昭和24年(1949年)、放送法が成立してラジオ全盛期を迎えたのです。

戦前も、上方の2代目・桂春団治の出演を皮切りに、ラジオ落語が人気を博していました。

そのブームに戦後にも火が付いたのです。

セットもバンド演奏もいらない。

面白い話があれば、それで受ける。

そんな落語はもってこい。ラジオなら、志ん生のぼろっちい格好を誰も気にしません。

すぐさま志ん生は売れっ子となり、懐も随分潤うようになります。

ところがへそ曲がりの志ん生は「貧乏の頃の方が、楽しかったねえ」と言っていたそうで。

人気があっても気まぐれで、気が乗らないと高座を投げてしまう。

演じている途中で、話が無茶苦茶になることもありました。

しかし、そんな破天荒ぶりまでもが「天衣無縫の落語の神様」として愛されました。

昭和28年(1953年):ラジオ東京専属になる

昭和29年(1954年):ニッポン放送専属になる

1954年に撮影されたラジオ東京専属メンバー(前列真ん中が古今亭志ん生)/wikipediaより引用

 

天衣無縫の落語の神様

歳を経て人気絶頂となった志ん生は、昭和36年(1961年)、脳出血で倒れました。

療養後に現場へ復帰しましたが、芸風が変わりました。

破天荒な見せる落語から、しっとりと聞かせる落語になったのです。病前、病後と分けて語られますが、どちらにも味がありました。

昭和43年(1968年)には、紫綬褒章を受章。

祝いの言葉を聞いても「そうだってねえ」と、どこか他人事。

名人といわれていても、気取りがなく、飄々としたままです。

昭和44年(1969年)が最後の高座となりました。

が、本人としては独演会をやりたいという思いは持ち続けていたようで「こうなりゃあ、90まで生きてやる」と周囲には語っておりました。

しかしそれには及ばず、昭和48年(1973年)83才で永眠します。

昭和31年(1956年):自伝刊行、芸術祭賞受賞

昭和32年(1957年):落語協会4代目会長就任(〜昭和38年まで)

昭和36年(1961年):脳出血で倒れる。回復後は芸風がおとなしめに変わる

昭和39年(1964年):二冊目の自伝刊行

昭和43年(1968年):紫綬褒章受賞

昭和44年(1969年):最後の高座にあがる

昭和46年(1971年):りん夫人死去

昭和48年(1973年):永眠、享年83

高座で酔っ払う。

途中で話が無茶苦茶になる。

ともかく破天荒で、天衣無縫。

それでも憎めない。

人々に愛された、落語の神様でした。

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文:小檜山青

【参考文献】
古今亭志ん生『志ん生放談』(→amazon)
山本進『図説 落語の歴史 (ふくろうの本)』(→amazon

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