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【5代目古今亭志ん生】
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「なめくじ長屋の貧乏伝説」
さて、この頃になると志ん生もいい歳になった、ということでして。
「おめえさんもそろそろ、女房をもらって身を固めねえといけねえや」
周囲はそう言い出しました。
「俺ぁ商売柄、家を空けてばっかりだ。その上、酒と博奕と遊びが好きときてらぁ。まだ一人前でもねえから金もない。親兄弟もいない。それでいいってんなら」
そんな最悪な条件にもめげずにやって来たのが、清水りんでした。
結婚するならめでたいものを、と思ったのに何のもなく、仕方なしに【鯛焼き】を本物の鯛に見立てたとか。
箪笥に道具を詰めて嫁入りしたりんでしたが、一月もしないうちに持ち物は空っぽになりました。
仲人は、相手の親に申し訳ないと涙をこぼしたとか。
りんは辛抱強く、体も丈夫な女性でした。
結婚して三日もしたら吉原に通い出した夫にもジッと耐え抜いたのです。
そんな二人は、やがて子宝に恵まれます。
このころ、一家は貧乏のどん底でした。
相も変わらずきかん気の強い志ん生は、5代目三升家小勝(みますやこかつ)と対立。
落語界に居場所を失い、町工場で働いたり、講釈師になったり。
謝罪して落語界に戻ったところで、真打ちではなく、前座として端席に出るのがやっとです。
長男が生まれた頃と前後して、夜が白み始める隙をついて、家財道具を車に積んで笹塚から夜逃げ。
いついた先の業平橋のとある長屋でした。
家賃がいらないということで決めたわけですが……これこそ、志ん生が「なめくじ長屋」と名付けた、とんでもない長屋だったのです。
志ん生のことですから多少話を盛っている可能性がありますが、ここは彼自身の回想から、どんな長屋か説明しましょう。
そこは震災後の家不足を補うため、池や田んぼをゴミで埋め立てた場所でした。
えらく湿っぽいせいか、虫やナメクジがうようよ。毎朝人の指くらいのでかいナメクジがごっそりと出てくるのです。
塩をかけたくらいじゃ効きません。
毎朝それを取って、十能に入れて捨てに行くのが志ん生の日課になりました。
コオロギや蚊も出ます。
夏場は家についたら蚊帳に入らないと、生きていけないような状態。
こんな酷い場所でも人は住めると宣伝したいがため、志ん生一家は家賃無料と引き換えに、おとりの広告塔にされたわけでした。
高座にあがろうにも、着る物にすら苦労していました。
羽織を着ようにも、絽(ろ)のものしかありません。
それも破けていて縫うことができないので、紙で補強したシロモノなのです。
夏場はそれでよいものの、冬場となると困ります。
高座に上がっているぶんにはよい。されど近くで見たら絽であることがわかってしまう。
志ん生は落語家の控え室でも火鉢から遠くに、一人で座っていたと言います。
ただ、これはあくまで志ん生の言い分です。
羽織のことだけではなく、落語家仲間からは性格上の難しさ等もあって孤立していたようです。
明治から大正にかけて、落語界にも派閥がありました。
志ん生はあくまで一匹狼。孤高の姿勢を見せていたのです。
「なぁに、落語家に貧乏なんざ良薬ですよ」
後に、そう振り返っている志ん生は、苦しい状況にもめげませんでした。
彼の頭の中にあるのは、ただ芸への精進のみ。稽古だけでは到達できない、欲を捨てて味を出すこと。
何十年もしゃべり続けてようやく達せられる境地をめざし、志ん生はただひたすら、道を突き進んだのでした。
遅咲きの花がついに咲く
前座としてボロボロの格好で出て、辛気くさい顔をしている。
そのくせ話を聞いてみると、滅法うまい――。
通(つう)の間で、そんな落語家がいると話題になっていた志ん生。
精進の甲斐があってか、ようやく実力が認められるようになりました。
ここでようやく、16回におよぶ改名も終わります(ただし17回説もございます)。
独演会をできるほどの人気も得たのは、実に50才手前。
ようやく遅咲きの花が開いたのです。
しかし、生活が安定するのはまだ先のこと。
明るかった時代は終わり、日本は次第に戦争へ向けて、突き進んでいくのでした。
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