昭和5年(1930年)3月10日は金子みすゞが亡くなった日です。
若くして死したことは有名ですが、その理由が自殺であったということは、意外とご存知ない方が多いのではないでしょうか。
今と比べて平均寿命も栄養状態も悪かった時代、なぜ自ら死を選んだか?
その生涯を追いかけてみました。

金子みすゞ童謡全集(→amazon)
お好きな項目に飛べる目次
西條八十の童謡に感銘を受け「私も書いてみたい」
金子みすゞの本名はテルといい、現在の山口県長門市で生まれました。
お父さんは清(当時の中国)で本屋さんを営んでいましたが、彼女が3歳のときに現地で亡くなっています。
稼ぎ頭を失った一家は、地元で本屋さんを始めました。
みすゞは女学校を卒業するまでは祖母の元で暮らし、その後は本屋さんを手伝っていたそうです。
元から本が好きだったらしいので、天国に感じられたかもしれませんね。
そしてあるとき西條八十の童謡に感銘を受け『私も書いてみたい!』と思ったのが詩作のきっかけ。
20歳になったみすゞは、憧れの西條が選者をしている雑誌に投稿し、見事、目に留まって自作が掲載されます。
その魅力は直ちに広まり、今度は自身が全国の少年少女や若手詩人の憧れの的になりました。
結婚相手がロクデナシのDV男だった
結婚したのは23歳のときで、相手は父が経営していた書店に勤める男性でした。
そこそこの地位についていたそうですが、この人が女性問題を起こして本屋さんを追われてしまいます。
この時代のことですから、金子みすゞも夫に従わざるをえなくなりまして、ここからが悲劇の始まりでした。
旦那が何を血迷ったのか「お前のやっていることは気に食わん!今すぐやめろ!!」と当り散らしてきたのです。
どう見てもDVです。
本当にどうしようもありません。
しかも詩を通してできた友人達との交流まで禁じるわ、みすゞによそでもらってきた病気を移すわ、真性のロクデナシだったのです。
さすがにこれほどまでの仕打ちを受けてはおとなしいみすゞも黙っておらず、離婚を願い出ます。

金子みすゞ/wikipediaより引用
このとき二人の間には娘がいました。
もちろんみすゞは手元で育てたいと思い、娘の親権をくれるよう交渉するも、夫ははねつけてきます。
一度了承したくせに後から「やっぱやーめた! 娘の親権は俺のもの!!」と言い出したそうなので、クズの見本みたいな奴ですね。
この頃の法律(旧民法)では「親権者は子と家を同じくする父」というのが原則でしたので、この辺が理由なのかもしれません。
※続きは【次のページへ】をclick!