こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【橿原神宮】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
幕府制作の陵がイケてない
脚光を浴びたのは、幕末頃になってから。
「そういえばこの辺は神武天皇ゆかりの地じゃないか!」と再認識されました。
江戸時代中も、幕府によって
「神武天皇の陵(みささぎ・お墓のこと)が所在不明? ウチらが見つければ幕府の権威が高められる! 頑張って探そう!」(※イメージです)
という試みはされていたそうです。
が、結局、これだというものが見つからず、伝承や記録から「この辺にこのくらいの大きさの陵があっただろう」ということでそれっぽいものを作っています。
神武天皇の存在を信じるのであれば、橿原の地で暮らして亡くなったことも事実なわけで、どこにお墓があるかということは細かい話でしょうね。
明治時代にできた神武天皇陵
再び動き出すのは明治時代になってから。
「幕府が作った陵、ショッボ! これじゃお上(明治天皇)の名にも傷がついてしまう! もっと立派に作り直そう!」
ということで、改めて神武天皇陵が作られました。
これが現在「神武天皇陵」と呼ばれているものです。
それまでの間も周辺地域では神武天皇への信仰が篤く、政権が天皇に移ったというタイミングもあって、「ここに神武天皇をお祀りしたい」という声が上がりました。
これを明治天皇が容れ、橿原神宮が作られて今日に至ります。
ちなみに橿原市の市章も、神武天皇の弓に止まって敵を追い払った鳶を意匠化しており、神話由来のものです。
日本の自治体のマークとしてはかなりカッコイイ部類じゃないかと思うのですが、いかがでしょう。
神話や信仰に意味があるか?
というのは悪魔の証明に近い話ですが、文化的に良い面があるのなら、残していったほうがいいのではという気がします。
あわせて読みたい関連記事
明治天皇の功績&エピソードまとめ~現代皇室の礎を築いたお人柄とは?
続きを見る
孝明天皇の生涯を知れば幕末のゴタゴタがわかる~謎に包まれた御意志
続きを見る
高齢の女帝が朝鮮半島へ!斉明天皇が鬼ノ城を建てたのは出兵のため?
続きを見る
桓武天皇が遷都のほか様々な改革を実行できたのはなぜか?平安前期を振り返る
続きを見る
なぜ後鳥羽上皇は幕府との対決を選んだ?最期は隠岐に散った生涯60年
続きを見る
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
橿原神宮(公式サイト)
橿原神宮/wikipedia