嘉納治五郎

嘉納治五郎/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

日本柔道の祖・嘉納治五郎がオリンピックの誘致に賭けた情熱 77年の生涯

2025/05/03

嘉納治五郎(かのうじごろう)が柔道の創始者――というのは多くの日本人に知られた話です。

基本は人を殺すための武術であった柔術をスポーツ競技としての柔道に仕上げ、「講道館」という道場を設立したことでも知られます。

しかし、2019年大河ドラマ『いだてん』で、そのイメージはかなり変わったことでしょう。

役所広司さんが演じた嘉納治五郎。

彼は柔道の近代化に尽くしただけではなく、『いだてん』の主人公である金栗四三を見いだし、ストックホルム五輪へと導いた人物でもあります。

それだけではありません。

偉大な教育者でもあり、世界的な競技イベント「オリンピック」を日本へ最初に持ち込んだ経歴を持つ方です。

いかにして嘉納は招致へ向けて動いたのか。

1938年(昭和13年)5月4日が命日となる、その生涯を振り返ってみましょう。

柔道着姿の嘉納治五郎/国立国会図書館蔵

 


動機は「喧嘩に勝ちたい」だった

幕府の軍艦・咸臨丸が、日米修好通商条約批准のために太平洋を横断した蔓延元年(1860年)。

その年12月10日(新暦10月28日)に、摂津国の名家である嘉納家に、嘉治五郎は誕生しました。

江戸城の無血開城が行われ、箱館戦争の終了した翌明治3年(1870年)、明治新政府に招聘された父・嘉納治朗作は、息子を連れて上京します。

文明開化の波押し寄せる東京で、嘉納治五郎は書道、漢学、英語を学びました。

明治7年(1874年)、嘉納は育英義塾(のちの育英高校)に入塾。

学問の成績は極めて優秀ながら彼には、悩みがありました。

「俺は成績では誰にも負けぬ。しかし腕っ節で負けてしまうのはどうしたものだろうか」

虚弱体質とまでは言わないものの、腕力では級友に負けてしまう。

成績では勝っているのに、喧嘩で負けてしまう――これでは余計に軽んじられてしまうことが、悔しくてたまりませんでした。

「柔術は、腕力でかなわぬ相手でも投げ飛ばすことができるらしい」

悔しい思いをモヤモヤとさせていた嘉納は、ある日そんなことを聞きました。

柔術を学べば喧嘩に勝てる!

磯又右衛門、吉田千春 天神真楊流極意教授図解『投捨 片胸捕』/photo by wikipediaより引用

 


整骨院で柔術名人を見つけよう!

そう確信した嘉納は柔術を習おうとしますが、どうにもうまくいきません。

周囲は冷淡でした。

「今は文明開化の時代。柔術なんて、そんな古くさいものを今更学ぶ必要はありません。英語をみっちりと学びなさい」

そんなわけで、官立東京開成学校(1877年に東京大学)へ進学。

今では考えられないかもしれませんが、東大もかつては、育英義塾以上に腕力がものを言うスクールカーストでした。

「ここでもやっぱり喧嘩が弱いとバカにされる。どうにかしたい!」

英語を学ぶはずが、ますます柔術に憧れる嘉納。

とはいえ、英語力もしっかりと身につけているのが、根っからの秀才体質と申しましょうか。

その後、明治11年(1878年)に漢学塾二松學舍(後の二松學舍大学)へ進んでも、柔術への思いは強まるばかり。

そんなあるとき、嘉納は思いつきました。

「整骨をする者は、柔術の名人は多いと聞く。つまり、整骨院をしらみつぶしに探していけば、柔術の名人が見つかるに違いない!」

かくして嘉納は、学問の合間に整骨院巡りをはじめたのです。

なんとも面白い発想をする方ですね。

 

整骨院で運命の出会い―八木貞之助

嘉納は整骨院の看板を片っ端から訪問しました。

「いやあ、柔術なんてさっぱりわかりませんな」

「昔はやっていましたけど、御一新だの文明開化の時代ですからねえ。今更やりませんや」

相手の返事はそっけないものでした。

常人ならば諦めるところです。

しかし粘り強く、探究心に満ちた嘉納にそのような諦念は湧いてきませんでした。

そんな時、日本橋のとある整骨院を訪れてみると……髪も髭も真っ白、それでいて鍛え上げた肉体を持つ、ただならぬ雰囲気の老人と出会います。

「じゅ……、柔術はなされますか?」

嘉納がそう問いかけると、老人はじっとこちらを見てきます。

「なぜそのようなことを尋ねるので?」

嘉納は、柔術へのあこがれを熱心に語りました。

すると老人は膝を叩いて喜びました。

「ハッハッハ! このご時世に殊勝な心がけである」

老人は八木貞之助といいました。

自分は老齢で指導できない――ゆえに同門であり、天神真楊流を学んだ福田八之助を訪ねろと紹介してくれたのです。

 


稽古は、基本、体で覚えろ

さて、この天神真楊流の道場はなかなか荒っぽいものでして。

師匠の福田に投げ飛ばされた嘉納。

こう尋ねます。

「今の技はどう投げたのですか?」

「おいでなさい」

すると福田は、嘉納を掴んで投げ飛ばしたのです。

投げられた嘉納はまだ聞き返し……ということを繰り返す。

「聞いたところでわかりませんよ。ただ、数さえかければ出来るようになる。さあ、おいでなさい」

何度も何度も投げ飛ばされるのです。

稽古は、基本、体で覚えろというものでした。

 

稽古のあとは筋肉痛で体がギシギシと悲鳴をあげ、立ち上がることすらできない始末。生傷の絶えない肉体に膏薬を貼り付けて練習に励んだのでした。

当時、柔術は前述の通り文明開化のあおりで下火でした。

嘉納は友人を稽古に誘うものの、皆断るか、途中で辞めてしまう有様です。

そんな柔術界隈で、やる気と若さにあふれた嘉納は、メキメキと頭角を現します。

明治12年(1879年)7月には、渋沢栄一の依頼を受け、来日中のユリシーズ・グラント前アメリカ合衆国大統領に披露する柔術演武に参加しました。

渋沢栄一/wikipediaより引用

 

古臭いとして武術は廃れていったが……

その後、嘉納は、師匠を変えながらも柔術を続けてました。

ただし、嘉納は柔術だけの男ではありません。大学で学業にも励むとともに、様々なスポーツにも挑戦しました。

当時伝わったばかりの野球等にも取り組んでいます。

が、結論は常に同じでした。

「うむ、柔術ほど鍛錬が気軽にできるものはない。やはり柔術を習って正解だ」

柔術の鍛錬は、精神的にもよいものでした。

生まれつき短気であった嘉納は、柔術を学ぶにつれ、穏やかで我慢強い性格になったのです。

「武術ほど、人の体力、知能、道徳を鍛えるものはない」

嘉納はそう確信を深めてゆきました。

文明開化以来、武術は古臭いものとして廃れていました。かつての剣豪たちですら、撃剣試合をして観客から日銭を稼ぐ始末です。

柔術は、素晴らしい。しかし、柔術のままでは、人の心をとらえることはできないのではないか?

嘉納は悩み、ある結論に達します。

 

「講道館」創設

「己自身の手でまったく新しい武術を始めよう!」

そんな大志を抱き、道場を開いた嘉納。

明治15年(1882年)、下谷北稲荷永昌寺に「講道館」という名の道場を開きます。

近代柔道の幕開けです。

柔術から柔道へ――意識を改革するため、嘉納はまず段位制導を導入しました。

講道館最初の門下生は、9名。

何度か道場の移転を繰り返しながら、嘉納以下、門下生たちは熱心に稽古に励みます。

次第に講道館の名は知られるようになり、入門者や試合申し込みも増えてゆきます。

明治22年頃に撮影された警視庁武術世話掛の写真。最前列左から2人目が、講道館四天王の一人・山下義韶/wikipediaより引用

そして明治19年(1886年)。

講道館道場は、警視庁の武術大会で制覇。

そのまま警視庁に採用されることになり、その名が全国に知れ渡っていくのです。

 

教育者としての嘉納

嘉納は、武術家としてだけの一面ではなく、教育者としても誠意あふれる人物でした。

まだ少年のうちから何かを教えることに喜びと充足感を見いだしていたのです。

そんな嘉納を世間が放っておくはずもありません。

明治15年(1882年)、嘉納は学習院(官立学校)に在職中の友人から「是非来て欲しい」と誘われます。

イメージ的には「スポーツ科学」あたりかな?と思いますよね。

ところが時代が時代ですし、担当科目は「政治学」と「理財学」でした。しかも嘉納は、日本語による講義と、英語による講義を共に担当したのです。

まさに文武両道。

講道館での柔道もあったため、嘱託講師、今でいうところの非常勤講師のような扱いでした。

同年、嘉納は「弘文館」という英語学校も開設しました。

こちらは資金繰り等問題もありまして、7年ほどで閉館。後年に「失敗であった」と回想しています。

しかし、失敗とも言い切れないのです。

清国から積極的に留学生を受け入れ、中国を代表する、かの文豪・魯迅もここで学んでいたのですから。

 

船上で巨漢のロシア人仕官をバッタバッタと

当時の教育界にはある問題がありました。

まだ徳川時代の身分制度をひきずっており、教師が生徒に対して遠慮しがちなのです。

例えば教師が元は一藩士、生徒が旧主筋であったりすると、上下関係が歪んでしまいます。

このようなことは愚かしい。

そう憤っていた最中、ちょっとした事件が起きます。旧制度をひきずった学習院の新院長が、留学内定者を身分が理由で取り消したのです。

当初は問題なく学習院で教鞭を執っていたものの、この新院長による行動には立腹が収まりません。

相手は上司であり、学校全体の責任者である。どうしたものか……。

と、悶々とした嘉納のもとに、思いがけない話が舞い込みます。

【欧州の視察に行かないか】という話でした。

これを快諾した嘉納は旅立ちます。

彼の英語力、海外までに渡航した経験は、後に役立つことになり、教育者としても得ることの多い洋行でしたが、お約束と申しましょうか、

【船の上で巨漢のロシア人仕官をバッタバッタと投げ倒した】なんてワクワクするような逸話も残されております。

明治24年(1891年)。

帰国した嘉納は、そりのあわない院長のもとで教師として生きてゆくのかと、悶々としていました。

そんなとき、旧制第五高等中学校(現・熊本大学)で教鞭を執らないかという誘いが来て、嘉納はこれを受諾。

いざ熊本へ赴任すると、どうにも学校は小さく、人材も少ないと言うありさまでした。

それでも嘉納は学校の発展に尽力しました。

怪談話で知られるラフカディオ・ハーン(小泉八雲)と同僚になったのも、この時のことです。

小泉八雲/wikipediaより引用

嘉納が関わった学校は、他にもあります。

旧制灘中学校(現・灘中学校・高等学校)や日本女子大学がそうですね。

こうした学校で、現場教育にあたるだけではなく、文部省参事官、普通学務局長、宮内省御用掛として出仕することもあったのですから、まさに教育者としても一流でした。

 

近代スポーツ確立者としての嘉納

嘉納が素晴らしいのは、やはりバランス感覚ではないでしょうか。

江戸から明治という価値観が激変する最中、古武術を学ぶ武士のような心構えだけではなく、近代スポーツ確立を目指す進歩的な部分を持ち合わせ、実際に行動に移した人物です。

彼は柔道をただのスポーツとしてではなく、世界中に広めたいと考えていました。

人々の心身を鍛え、ひいては平和にすら貢献するような、そんな大きな夢を抱いていたのです。

そんな嘉納の理想は、近代五輪とも一致するものであり、日本のオリンピック発展に大きく寄与しております。

大河ドラマ『いだてん』でクローズアップされた金栗四三や三島弥彦、あるいは押川春浪などですね。ざっと年表で追ってみましょう。

・明治42年(1909年)東洋初のIOC委員に就任。

・明治45年(1912年)ストックホルムオリンピックの日本選手団には団長として参加。教え子である金栗四三の力走を見守ります。

・昭和11年(1936年)東京五輪の招致に成功するだけでなく、その2年後には、札幌五輪の冬季五輪の招致にも成功するも、昭和13年(1938年)、77才で没します。

東京五輪って、いつの東京五輪だ?札幌五輪ってのも? と思われるかもしれません。

むろん戦後の1964年ではありません。

昭和15年(1940年)に開催が予定されながら、戦争の悪化で中止となった【幻の東京五輪(1940年東京オリンピック)】です(同じく札幌五輪も1940年に予定)。

幻の東京五輪(1940年東京オリンピック)
幻の東京五輪(1940年東京オリンピック)中止になったのは本当に戦争のせい?

続きを見る

「柔道」のイメージが圧倒的に強く、ともすれば競技者しか関係ないのでは?

そんな風に思われがちな嘉納ですが、実は日本の近代スポーツに大きく貢献されていた人物だったのですね。

彼の名は、今でも偉大な柔道家として、世界中で輝き続けております。

嘉納治五郎/国立国会図書館蔵

2022年2月24日――ロシアによるウクライナ侵攻が始まりました。その強引な侵攻を決めたのは、言うまでもなくプーチン大統領。

そんな今の彼に噛み締めていただきたい言葉があります。

精力善用――強い力こそ、何かをねじ伏せることにではなく、世の中をよりよくするために用いるべきである。

柔道をこよなく愛するプーチン大統領は、2017年9月、日ロ首脳会談で安倍晋三首相(当時)から嘉納治五郎直筆の「権力善用」の書を。そこから遡ること12年前の2005年には、山下泰裕氏から、同じく嘉納治五郎の直筆書「自他共栄」を贈られています。

首相官邸ホームページより引用(→link

この嘉納治五郎こそ、柔術から近代的な「柔道」を生み出した人物です。

基本は人を殺すための武術であった柔術をスポーツ競技としての柔道に仕上げ、「講道館」という道場を設立したことでも知られます。


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【参考文献】
『嘉納治五郎全集第十巻 自伝・回顧』(→amazon

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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