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【嘉納治五郎】
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教育者としての嘉納
嘉納は、武術家としてだけの一面ではなく、教育者としても誠意あふれる人物でした。
まだ少年のうちから何かを教えることに喜びと充足感を見いだしていたのです。
そんな嘉納を世間が放っておくはずもありません。
明治15年(1882年)、嘉納は学習院(官立学校)に在職中の友人から「是非来て欲しい」と誘われます。
イメージ的には「スポーツ科学」あたりかな?と思いますよね。
ところが時代が時代ですし、担当科目は「政治学」と「理財学」でした。しかも嘉納は、日本語による講義と、英語による講義を共に担当したのです。
まさに文武両道。
講道館での柔道もあったため、嘱託講師、今でいうところの非常勤講師のような扱いでした。
同年、嘉納は「弘文館」という英語学校も開設しました。
こちらは資金繰り等問題もありまして、7年ほどで閉館。後年に「失敗であった」と回想しています。
しかし、失敗とも言い切れないのです。
清国から積極的に留学生を受け入れ、中国を代表する、かの文豪・魯迅もここで学んでいたのですから。
船上で巨漢のロシア人仕官をバッタバッタと
当時の教育界にはある問題がありました。
まだ徳川時代の身分制度をひきずっており、教師が生徒に対して遠慮しがちなのです。たとえば教師が元は一藩士、生徒が旧主筋であったりすると、上下関係が歪んでしまいます。
このようなことは愚かしい。
そう憤っていた最中、ちょっとした事件が起きます。旧制度をひきずった学習院の新院長が、留学内定者を身分が理由で取り消したのです。
当初は問題なく学習院で教鞭を執っていたものの、この新院長による行動には立腹が収まりません。
相手は上司であり、学校全体の責任者である。どうしたものか……。
と、悶々とした嘉納のもとに、思いがけない話が舞い込みます。
【欧州の視察に行かないか】という話でした。
これを快諾した嘉納は旅立ちます。
彼の英語力、海外までに渡航した経験は、後に役立つことになり、教育者としても得ることの多い洋行でしたが、お約束と申しましょうか、
【船の上で巨漢のロシア人仕官をバッタバッタと投げ倒した】なんてワクワクするような逸話も残されております。
明治24年(1891年)。
帰国した嘉納は、そりのあわない院長のもとで教師として生きてゆくのかと、悶々としていました。
そんなとき、旧制第五高等中学校(現・熊本大学)で教鞭を執らないかという誘いが来て、嘉納はこれを受諾。いざ熊本へ赴任すると、どうにも学校は小さく、人材も少ないと言うありさまでした。
それでも嘉納は学校の発展に尽力しました。
怪談話で知られるラフカディオ・ハーン(小泉八雲)と同僚になったのも、この時のことです。
小泉八雲は親日家のお雇い外国人で『怪談』の著者~東大で英語教師も担っていた
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嘉納が関わった学校は、他にもあります。
旧制灘中学校(現・灘中学校・高等学校)や日本女子大学がそうですね。
こうした学校で、現場教育にあたるだけではなく、文部省参事官、普通学務局長、宮内省御用掛として出仕することもあったのですから、まさに教育者としても一流でした。
近代スポーツ確立者としての嘉納
嘉納が素晴らしいのは、やはりバランス感覚ではないでしょうか。
江戸から明治という価値観が激変する最中、古武術を学ぶ武士のような心構えだけではなく、近代スポーツ確立を目指す進歩的な部分を持ち合わせ、実際に行動に移した人物です。
彼は柔道をただのスポーツとしてではなく、世界中に広めたいと考えていました。
人々の心身を鍛え、ひいては平和にすら貢献するような、そんな大きな夢を抱いていたのです。
そんな嘉納の理想は、近代五輪とも一致するものであり、日本のオリンピック発展に大きく寄与しております。
この辺が大河ドラマ『いだてん』の金栗四三や三島弥彦、あるいは押川春浪などともリンクしてくると思われますが、詳細はそちらの記事に譲り、ざっと年表で追ってみましょう。
・明治42年(1909年)東洋初のIOC委員に就任。
・明治45年(1912年)ストックホルムオリンピックの日本選手団には団長として参加。教え子である金栗四三の力走を見守ります。
・昭和11年(1936年)東京五輪の招致に成功するだけでなく、その2年後には、札幌五輪の冬季五輪の招致にも成功するも、昭和13年(1938年)、77才で没します。
東京五輪って、いつの東京五輪だ?札幌五輪ってのも? と思われるかもしれません。
むろん戦後の1964年ではありません。
昭和15年(1940年)に開催が予定されながら、戦争の悪化で中止となった【幻の東京五輪(1940年東京オリンピック)】です(同じく札幌五輪も1940年に予定)。
幻の東京五輪(1940年東京オリンピック)が中止になったのは本当に戦争のせい?
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「柔道」のイメージが圧倒的に強く、ともすれば競技者しか関係ないのでは?
そんな風に思われがちな嘉納ですが、実は日本の近代スポーツに大きく貢献されていた人物だったのですね。
彼の名は、今でも偉大な柔道家として、世界中で輝き続けております。
★
2022年2月24日――ロシアによるウクライナ侵攻が始まりました。その強引な侵攻を決めたのは、言うまでもなくプーチン大統領。
そんな今の彼に噛み締めていただきたい言葉があります。
精力善用――強い力こそ、何かをねじ伏せることにではなく、世の中をよりよくするために用いるべきである。
柔道をこよなく愛するプーチン大統領は、2017年9月、日ロ首脳会談で安倍晋三首相(当時)から嘉納治五郎直筆の「権力善用」の書を。
そこから遡ること12年前の2005年には、山下泰裕氏から、同じく嘉納治五郎の直筆書「自他共栄」を贈られています。
この嘉納治五郎こそ、柔術から近代的な「柔道」を生み出した人物です。
基本は人を殺すための武術であった柔術をスポーツ競技としての柔道に仕上げ、「講道館」という道場を設立したことでも知られます。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
『嘉納治五郎全集第十巻 自伝・回顧』(→amazon)