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【三浦環】
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「マダム三浦の『蝶々夫人』をぜひ!」
ロンドンで舞台を踏んだ環は、おそるべき体験をします。
歌いつつ振り返ると、共演者がいない。
観客も、オーケストラも。
そして【ドーン! ドーン!】という不気味な音の中、こんな声がしたのです。
「マダム三浦、逃げないと殺されてしまう!」
ドイツのツェッペリン飛行船によるロンドン空襲でした。
環は楽屋に逃げ込み、窓から外を見ます。花火どころではない炎に怯えた彼女はこう思います。
木造家屋ばかりの日本が空襲される日が来たら、どうなるのか……。不幸にして、30年後、それが現実のものとなるとは、このとき知るよしもありません。
環は上演途中で裸足のまま下宿に戻ったものの、新聞は熱狂的にこの公演を大絶賛しました。
その絶賛の声は大西洋を越え、ニューヨークの新聞でも報道されます。
「マダム三浦の『蝶々夫人』をぜひ!」
そんな熱狂が、世界各地で沸き起こったのです。かくして日本の歌姫が、世界へ飛びだったのでした。三浦夫妻は海を越え、シカゴでの初舞台に挑むのでした。
アメリカでの舞台も、大好評を博します。
「あれほどの舞台を見たことはありません!」
そんな絶賛だけではありません。
ある女性は、環に涙を流しながらこう謝罪してきました。
「我が国の海軍士官が、蝶々さんのような日本人女性を傷つけたなんてひどい。ごめんなさい……」
あるいは、こんなことも。
「気の毒な蝶々さんが自殺して、胸が張り裂けそうで。でも、アンコールであなたが起き上がったから、ホッとしました。自分自身が生き返ったような気分で……」
あれはあくまで創作ですよ、死んだ蝶々さんは実在しませんよ、そう突っ込みたくなります。環の演技力と歌唱力が、それほど観客を引き込んだのでしょう。
第一次大戦のあと、環はアメリカで慰問公演を行いました。コンサートでウィルソン大統領はこうリクエストしたほど。
「マダム三浦、どうか、その美声で国歌を歌っていただけませんか」
環の歌声は、世界に轟きました。
プッチーニも絶賛「あなたこそ理想のお蝶さんだ」
大正9年(1920年)には、ローマで作曲家のプッチーニと対面しました。
彼は作曲秘話から始め、うっとりと語り始めます。
「マダム三浦、あなたこそ、私が夢見たお蝶夫人そのものだ。アメリカやスペインのプリマドンナたちが、舞台でお蝶夫人として歌う。でも彼女らは自分の歌声を披露したいだけだ。お蝶夫人の繊細な心のうちまでは表現しようとしない。でも、マダム三浦は違う」
うっとりとその言葉を聞く環。
プッチーニは情熱的な言葉を続けます。
「第一幕では15歳の少女。第二幕第一場では母の愛と夫の帰りを持つ妻の気持ち。第二幕第二場では、自害に至る日本婦人の貞淑さゆえの悲劇を表現した! マダム三浦が演じているとは思わない。私の心の中にいるマダム・バタフライその人が、舞台に立っていた。あなたは私の夢を実現してくれた。他のうぬぼれたプリマドンナでは出せない、日本婦人の貞淑さや日本情緒も表現しきってくれた。あなたこそ、世界にたった一人だけの、理想のお蝶さんだ!」
そうしてプッチーニは、中国を舞台にした『トゥーランドット』を作曲しているから、東洋の音楽を聞かせて欲しいと要望してきたのでした。
それに応じて、環は日本の曲を披露しました。
彼の山荘に招かれ、野外にしつらえた舞台でお蝶夫人を歌い上げたこともありました。
環は大作曲家が創造したヒロインそのものになりきっていたのでした。
20年間2000回公演 世界のお蝶さんになる
以降、環は、欧米各国で20年間2000回にわたり蝶々さんを演じます。
世界が称賛するプリマドンナとなった環に対しては、在留日本人の嫉妬が向けられることもありました。夫の三浦も「妻の尻に敷かれた夫」と陰口を叩かれています。
それでも、妻を崇拝する三浦はどこ吹く風。
かくして三浦環は夫の理解と支えを受けつつ、世界を股にかける声楽家となるのです。
『蝶々夫人』は難しく、これに挑み、喉を潰すプリマドンナもいたほど。難しい演目をこれだけの数こなせた秘訣は、自ら編み出した歌唱法であると環は回想しています。
環は身体も頑健でした。
長い海外生活で体調を崩したのは、イタリアで豪華な食事を楽しみ、そのあとチフスに罹った一度きりのこと。
そんな妻が流石に恋しくなったのか、夫の三浦政太郎すら、洋行によい顔をしなくなったこともあります。
それでも環の情熱、名声、人脈を駆使して、世界を飛び回り、歌声を披露し続けたのでした。しかし……。
昭和4年(1929年)、ハワイで公演中、夫が急性腹膜炎で急逝したと電報が届いていました。
夫が待っていないのであれば、もう日本に帰る意味もない。世界に歌声を響かせるだけだと、環は一層歌に身を入れます。
昭和10年(1935年)に2000回の公演を達成したのを機に、環は永住帰国を決めました。
しかしこの帰国後、日本は戦争へと向かってゆくのです。
戦下を過ごす歌姫
帰国後、環は日本で公演をこなしてゆきます。
そんな環の人生にも、戦争は暗い影を落としてきました。
海外で長いこと過ごした彼女にとって、そこには信じがたい祖国の姿がありました。
彼女は太平洋戦争開戦後、東北地方の演奏旅行で「日米開戦、我が国は大勝利」という喧伝を見て、夢ではないかと疑いました。
どうしてこの小さな日本が、アメリカと戦って勝てるというのか。できるはずがない。そう悟っていたのです。
ガダルカナル、アッツ、サイパン、沖縄。
陥落の報告を聞き、環は胸を痛めます。
南に出征した兵士は飢死しているらしい。いったいどこの国が、祖国のために命をかける兵を飢え死にさせるのか。
環は憂いを深めてゆきます。
昭和19年(1944年)春、山梨県の山中湖畔に疎開すると、ピアノを持ち込み、母の看病や子どもへの指導をしながら日々を過ごしました。
そして昭和20年(1945年)4月に母・登波が永眠。翌5月には、東京にあった環の家が空襲で丸焼けとなりました。
かつてロンドンでツェッペリン飛行船を見て、東京が空襲されたらどうなるのかと思った環。その懸念と悪夢は、現実となったのです。
8月、終戦を迎えました。
その年の暮れにはリサイタルを再開した環。しかし、膀胱癌がその身を蝕んでいました。
年明けて昭和21年(1946年)5月26日、昏睡状態になってからも歌を口ずさみ、永眠。享年62でした。母と共に山中湖畔に眠っています。
三浦環は、日本どころか世界を魅了したプリマドンナでした。
まさに生きた『蝶々夫人』でした。
しかし、その天衣無縫の魅力は日本国内では狭すぎたのか、恋愛スキャンダルに巻き込まれ、誤解されやすかったことは確かです。
亡き夫の墓前で歌った際は「目立ちたがり屋」と陰口を叩かれたと言います。
スケールが大きすぎるがゆえに、日本が受け止めきれなかったところもある。
それが彼女でした。
そんな三浦環の人生は、現在においても鮮烈にその声と共に残されています。
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文:小檜山青
【参考文献】
三浦環・吉本明光編『お蝶夫人―伝記・三浦環 (伝記叢書 (204))』(→amazon)
『国史大辞典』
他